辛くしますか? เอาเผ็ดไหมคะ その2

以前、日本国内で製造販売されている、「激辛インスタント焼そば」を試したことがあります。
味としては、確かに激辛で、口の中が痺れる感覚がありましたが、その唐辛子の辛さだけが前面に出すぎて、辛さ以外の味は、ほとんど感じられません。
ちょっと失礼な言い方かもしれませんが、「辛さに深みが欠ける」という感じです。
タイのトムヤムクン(ต้มยำกุ้ง)は、辛いことは辛いけど、同時に酸っぱさも効いていて、ハーブの良い香りもあり、かつコクのある味なのです。
激辛インスタント焼そばとトムヤムクンは明らかに異質な感じがするのです。

韓国料理のなかでは、プサン(釜山)で食べた海鮮鍋(해물탕)が美味しかったのを思い出します。
こちらは、コチュジャン(고추장=唐辛子味噌)がよく効いていてなかなかの辛さです。
コチュジャンとは唐辛子ともち米麹などを発酵させて作られた発酵食品のひとつで、韓国ではポピュラーな調味料のひとつです。
チゲ(찌개)と呼ばれる鍋料理のほか、炒め物や焼き物にも多用されます。
またチョコチュジャン(초고추장)といってコチュジャンに食酢(식초)加えたものもあり、刺身をこのチョコチュジャンにつけて食べる韓国人が多いのは有名です。
韓国では、コチュジャンとはそれほどポピュラーな調味料なのです
しかしこの海鮮鍋も、単にコチュジャンの唐辛子の辛さだけでまとめられているわけではありません。
他のニンニクやショウガなどの薬味や塩やコショウといった調味料、そして出汁の良さと魚、カニ、エビ、貝類などの具材と相まって、その美味しさが完成されているのです。
あれほど辛いのに、スープを残すことはありません。
「最後の一滴まで旨い」
この感覚なのです。

以前に書きました「形容詞の多さ(https://ponce07.com/tom-yum-goong/)」でも触れていますが、「辛い」「酸っぱい」「しょっぱい」「甘い」「香ばしい」といった形容詞が多ければ多いほど、それは「旨い」ということになります。
タイと韓国…それぞれの鍋に違いはあるものの、その小さな鍋の中の「多様性」が濃ければ濃いほど、「旨さ」を醸し出しているということになるのです。

辛くしますか? เอาเผ็ดไหมคะ その3
https://ponce07.com/spicy-food-3/


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辛くしますか? เอาเผ็ดไหมคะ その1

アジアフリークとりわけタイフリークの僕にとって、辛い料理が好物なのは当然のことかもしれません。
普段の食卓でも香辛料は欠かすことのできないアイテムです。
粉唐辛子やタバスコの類は、常時用意しています。
と言うより切らしてしまうと不安になるほどなのです。
そんな噂が伝わったのでしょう。
辛いもの好きの職場の先輩からのお誘いがありました。
「奴はタイにはまっているようだから、きっと辛いものに強いに違いない」といったことだったのかもしれません。
激辛マニアの好事家が集い、激辛料理をこぞって食する催しに、僭越ながら参戦させていただくことになりました。
今日の激辛メニューは「中華」です。
思案橋横丁にある中華居酒屋「陽龍(ヤンロン)」に向かいました。
激辛の中華と言えば、四川料理が連想されますが、ここも四川料理を中心に様々な中華のレパートリーがあります。
(まったく辛くないものもありますので、辛い物が苦手なかたでも楽しめます)

激辛唐揚げは、ご覧のとおり。
輪切りの唐辛子が盛られたそれは、なかなかの強敵です。
揚げた鶏肉そのものは、さほど辛くはありません。
輪切りの唐辛子は、なかなかの辛さです。
唐辛子とともに花椒(ホアジャオ)が使われています。
花椒とは主に中華料理に使われるスパイスで山椒の一種で、しびれるような辛味があります。
四川料理や雲南料理などで煮込み料理や炒め物などによく使われます。
唐辛子の熱くなるような辛さと花椒のしびれるような辛さのコラボレーションです。
脂ののった鶏肉と輪切りの唐辛子と一緒に食べることで、程よいバランスを感じることができるでしょう。

激辛麻婆豆腐

次の一品は、激辛麻婆豆腐です。
こちらも、辛さはなかなかのものです。
ここでも唐辛子と花椒が登場します。
このコラボは四川料理では定番なのです。
少し遅れて感じる辛さに、汗がにじみ出るのがわかります。
脇に白いご飯が少しだけ添えられているのが、日本的でおもしろいところです。
あまりの辛さにヒーヒー言っている人も若干いましたが、僕にとっては、辛すぎて食べられないということはありません。
むしろ、「適度な辛さが効いていて、美味しくいただきました」というのが率直な感想です。
「少し辛いけど、全然平気ね」との感想は、今回同席していただいた韓国出身のHさん。
辛さには慣れているといった風情です。
さすがですね。

上記の2品のほかにも、たくさんの美味しい中華料理を満喫しました。
いずれの料理も、ほどほどの辛さがあって、実に美味しいものでした。
このような席に招いていただいた職場の先輩に感謝いたします。
しかし、辛さの許容範囲としては、自分的には「まだイケる」という感じもありましたが…。
★撮影 陽龍(ヤンロン) 長崎市本石灰町2-21

辛くしますか? เอาเผ็ดไหมคะ その2
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伊勢エビ กุ้งมังกรญี่ปุ่น

今年の野母崎伊勢エビまつりは今日からはじまります。
新鮮な海の幸をお楽しみください。

กุ้งมังกรญี่ปุ่นถือเป็นราชากุ้งแห่งท้องทะเลญี่ปุ่นเพราะรสชาติเฉพาะตัวของเนื้อกุ้งที่มีความนุ่มมาก และไม่แข็งเหมือนกุ้งมังกรอื่นๆ เนื้อมีความนุ่มและความหอมหวานมัน ถือได้ว่าเป็นวัตถุดิบคุณภาพชั้นเลิศ แม้กระทั่งในประเทศญี่ปุ่นเองก็หาทานได้ยากมาก มีราคาสูงที่สุดในบรรดากุ้งทั้งหมด
伊勢エビは、その味ととりわけとても柔らかいエビの肉の風味から、日本の海のエビの王道と呼ばれています。 他のエビのように固くなく、食感が柔らかくて甘いことから、最高の食材と言われています。その日本でも、入手は非常に困難なため、あらゆるエビの中でも最高値となっているのです。

ชาวญี่ปุ่นเชื่อว่าถ้าทานกุ้งมังกรญี่ปุ่นแล้วจะมีสุขภาพแข็งแรงและเอาชนะศัตรูได้อีกด้วย เนื่องมาจากเปลือกของกุ้งมังกรญี่ปุ่นเป็นสีแดงคล้ายกับเกราะนักรบซามุไร
日本人は、伊勢エビを食べると身体が丈夫になり、さらには敵に打ち勝つと信じているのです。 それは伊勢エビの殻は赤色で武士の鎧に似ているところから来ています。

การรับประทานในแบบญี่ปุ่นดั้งเดิมคือการรับประทานสด ๆ แบบซาชิมิ โดยตัดส่วนหัวของกุ้งแยกออกจากลำตัว เมื่อรับประทานเนื้อสด ๆ ต้องรับประทานร่วมกับมันกุ้งที่แคะออกจากส่วนหัวด้วยเพื่อเพิ่มรสชาติ
日本スタイルで食べること…それは生のまま食べることです。つまり刺身として食べることなのです。エビの頭を体から切り離します。 刺身を食べるときに是非お願いしたいのは、頭から取り出したエビの味噌と刺身を一緒に食べるようにしていただくことです。これをすることで伊勢えびの味が格段に上がります。


Nomozaki,จังหวัดนางาซากิเป็นที่รู้จักกันดีในฐานะที่เป็นเมืองแห่งความอุดมสมบูรณ์ของอาหารทะเลโดยเฉพาะกุ้งมังกรญี่ปุ่น
กุ้งมังกรญี่ปุ่นสามารถหาทานได้ง่ายตามร้านอาหารหรือโรงแรมทั่วไป จึงมีนักท่องเที่ยวมาทานอย่างไม่ขาดสาย
長崎県の野母崎は、豊富な海の幸とりわけ伊勢エビの街として知られています。
伊勢エビは、レストランやホテルで簡単に見つけることができます。
そして、ここを訪れその味覚を堪能する観光客が途切れることはありません。

เทศกาลกุ้งมังกรญี่ปุ่นNomozaki เป็นเทศกาลกุ้งมังกรญี่ปุ่นที่มีชื่อเสียงของนครนางาซากิ ซึ่งจัดขึ้นประมาณต้นเดือนกันยายนของทุกๆ ปี บนพื้นที่จัดงานNomozaki,นางาซากิ
ปีนี้จะจัดจนถึงวันที่23 กันยายนนี้
野母崎伊勢えびまつりは、 長崎市の有名な伊勢えびまつりです。 毎年9月上旬に長崎市野母崎で開催されます。
今年は今月23日まで開催されます。

https://www.facebook.com/i.nomozaki

การเดินทางจากสถานีนางาซากิไปที่Nomozaki ใช้เวลา 65 นาทีโดยรถประจำทาง ( Nagasaki bus สายNo.30 ลงจาก “Wakimisaki” )
長崎駅から野母崎までの所要時間はバスで65分です。(長崎バス30番利用。「脇岬」下車。)


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素晴らしいトイレ その2

日本にも、サービスのいいトイレは数多くありますが、クンミンで見たような人的なサービスはありません。
日本のトイレの良さは、設備の良さと清潔さにあります。
美しいトイレは、意外にも近所にありました。
佐賀県の有田市にありました。
佐賀県立九州陶磁文化館にあったバリアフリーのトイレです。

写真を見てお分かりいただけますが、便器や洗面台、くずかごに至るまでのすべてが、有田焼仕様になっています。
細かいところでは、洗面台の排水口のキャップや、照明のスイッチ部分のパネルもしっかり有田焼で飾られているのです。

内側にも模様が…
豪華な洗面台
こんなところにまで…

その一つ一つには、精緻な模様が描かれています。
あまりの美しさに、いつまでも眺めていました。
これでは、実際に使う気がしません(笑)。

有田焼は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器のことです。
はじめは、その積み出しが伊万里港からなされていたので、「伊万里(いまり)」とも呼ばれていました。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵したときは、多くの朝鮮人の陶工が捕えられて、日本に渡ってきました。
有田焼の生みの親と言われている李参平も、そのひとりでした。
肥前の鍋島氏に捕らえられ、日本にやってきたのです。
そして有田の泉山で陶石を発見して、日本で初めて磁器を焼くことになったのです。
その後も、この有田の地で改良が重ねられ、世界的に優れた陶磁器が量産されることになったのです。
日本では、優れた技術を持った職人は高く評価されます。
江戸時代になって、朝鮮との戦が終わったあとも、多くの朝鮮人の陶工が祖国に帰ることをせず、この地に定着することを選んだのは、こうした職人が高い評価を受けることのできる風潮がもたらしたものと考えられます。
有田町では、李参平は「陶祖」として尊敬されて、これを祭った陶山神社(すえやまじんじゃ)という神社もあるほどなのです。
現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いていると言います。
たとえ異国から連れてこられたよそ者でも、優れた技術を持った職人は、高い称賛を受ける。
この考えはとても重要なことであり、これからも大切にしてければならないと思います。

泉山 有田焼発祥の地

●佐賀県立九州陶磁文化館
所在地:佐賀県西松浦郡有田町戸杓乙3100-1
JR有田駅から徒歩約12分。自動車・タクシーで約4分。
https://saga-museum.jp/ceramic/

素晴らしいトイレ その1

外国に旅行に出たときに困るのは使い勝手の良いトイレを探すこと。
この件については、これまでもこのブログで書いたことがあります。
では、僕が今までに利用させていただいたトイレで最も素晴らしいのは、中国のクンミン(昆明)にあったあるホテルのトイレでした。
バックパッカー連中の話題は、トイレのネタが多く、どこのトイレが良いのか悪いのか、そんな話題が多かったのを思い出します。
そのなかでも中国のトイレの評判ははなはだ芳しくないものでした。
昔の中国の公衆トイレは使いにくいものも多くありました。
いまでこそ綺麗で使いやすいものも増えましたが、かつてはそうではありませんでした。
ターミナル駅など多くの人の集まるトイレでも壁が極端に低かったり、個室の戸がないものもあったりして、それは前時代的と言ってもいいものも多かったのです。
しかし、最も素晴らしいトイレは、その中国にあったのです。
公衆トイレは使いにくいものが多かったので、通りすがりに立ち寄った(というより勝手に利用させてもらったといったほうがいいのかもしれませんが)、たまたま入ったホテルのトイレでした。
まず入って感じたのは見た目が「とにかく綺麗!」という点でした。
洗面台や便器などの器具はマーブル調であり、よく磨かれています。
蛇口や配管部分などの金属管は真鍮で出来ていて、これが輝きを放っていて、自分の顔が映るほど磨かれていました。
専属のボーイがいて、この彼が常に掃除をしているようでした。
洗面台で手を洗うと、温かいお湯が出てきます。
中国では、まずお目にかかれません。
こちらが終わるのを見計らったように、そのボーイは僕の前に立っています。
そしてバスケットに入ったペーパータオルを渡してくれるのでした。
もちろん素手で手渡すのではなく、専用のトングを使ってこちらに渡します。
こういうサービスはそれまで受けたことはありません。
あっけにとられていると、ボーイの姿を見失います。
はたしてボーイはどこに…
足元にしゃがんでいました。
そして、僕の革靴を磨いていたのです。
お見事!というしかありませんね。
さすがにこのときは、チップをはずんだのを思い出します。
後で聞いたところ、そのホテルは中国の現地資本のホテルではなく、外資系のホテルとのことです。
それもタイ資本のホテルとのことでした。
あのような人的なサービスはやっぱりタイ式なのでしょう。
漢族は、そういった濃厚な人的サービスは好まないようです。
クンミン(昆明)と聞いても、東南アジアのタイとはイメージが結びつかないかたも多いと思います。
しかし、クンミンは雲南省の都であり、その雲南省は中国国内では、かなり西に位置していて、ミャンマーやラオスに隣接しています。
雲南省の南部には、シーサンパンナ(西双版納)という、タイ族自治州もあります。
タイから距離は意外と近く、タイの領事館もあります。

その後も、各地を旅行して、各地のホテルを利用しました
なかには五つ星クラスのホテルもありました。
しかし、あれほどの完璧なサービスに巡り合ったことはありません。

https://ponce07.com/great-toilet-2/

เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้ 読むとホッとする二人の日本人のイイ話 その2

ต่อมาเพื่อนร่วมงานของคุณลุงนิรนามคนนั้น ได้อ่านเรื่องราวของน้อง Sakimoto ที่ได้รับการเผยแพร่ online เมื่อวันที่ 10 พฤษภาคม 2019 และก็ฉุกคิดได้ว่าคุณลุงคนนั้นจะต้องเป็นเพื่อนที่ทำงานด้วยกันแน่ๆ จึงไปแจ้งคุณลุงคนนั้นให้ทราบ และคุณลุงคนนั้นเองก็ได้โทรศัพท์กลับไปที่โรงเรียนของน้อง Sakimoto เพื่อแจ้งชื่อและขอเข้าพบน้อง ซึ่งทางโรงเรียนก็ได้จัดแจงให้ทั้งสองคนได้มีโอกาสพบกันในเวลาไม่นาน ^^

その後、名もなきその男性の同僚が、 2019年5月10日にネット上で崎元君の記事を目にします。そして記事の「名もなき男性」は、自分の同僚であるに違いないことを直感したのです。そして、「名もなき男性」である同僚に、記事の内容を知らせます。男性は、すぐに崎元君の学校に連絡し、自身の名前を知らせ、崎元君に会いたいと頼みました。学校も近く二人が会う機会をセットすることになりました。

ในวันที่ 21 พฤษภาคม 2019 ซึ่งทั้งสองนัดพบกันนั้นมีสื่อมวลชนให้ความสนใจในเรื่องราวของทั้งสองคนและเดินทางมาทำข่าวที่โรงเรียนกันอย่างคึกคัก เมื่อถึงเวลานัดหมายคุณลุงนิรนามก็เข้ามาพบน้อง Sakimoto และทั้งสองก็ได้ทำความรู้จักกัน โดยคุณลุงผู้ใจดีคนนี้คือ คุณหมอ Hiroshi Inoya อายุ 68 ปี พื้นเพเดิมเป็นคนนาฮาแต่ปัจจุบันย้ายไปอยู่จังหวัดไซตามะ ซึ่งเมื่อทั้งสองได้ทักทายกันแล้ว น้อง Sakimoto ได้กล่าวขอบคุณคุณหมอ Inoya พร้อมทำการส่งมอบเงินจำนวน 60,000 เยนคืนคุณหมอต่อหน้าสื่อมวลชนด้วย นอกจากนี้น้อง Sakimoto ยังเตรียมของขวัญคือ ที่ทับกระดาษ Hand made สุดพิเศษที่สลักชื่อของน้อง Sakimoto และคุณหมอ Inoya พร้อมอักษรคันจิที่แปลว่า “ขอบคุณ” และมอบให้กับคุณหมอด้วย

2019年5月21日。名もなきその男性が沖縄を訪れる日です。二人の再開の日です。この日のこのニュースは、マスコミも大いに注目しています。約束の時間に、その名もなき男性が崎元君のもとに現れました。この時の二人は初めてお互いを知ることになります。この心優しい男性は、医師の猪野屋博さん(68歳)。元々那覇の出身でしたが、現在は埼玉県に住んでいます。報道陣の前で二人は挨拶を交わし、崎元君は猪野屋さんに感謝の気持ちを述べ、用意していた6万円を返しました。また、崎元君は、「感謝」の漢字とともに猪野屋さんと崎元君の名前が刻まれた手作りの文鎮をプレゼントしたのです。

ทางด้านคุณหมอ Inoya ก็ดีใจมากที่น้อง Sakimoto ทำของสุดพิเศษมาให้ ขณะที่คุณหมอก็เตรียมของขวัญชิ้นงามให้กับน้องเช่นกัน เมื่อน้องเปิดมาก็ติ้นตันใจเพราะคุณลุงซื้อ “กระเป่าสตางค์ใบใหม่” ให้กับน้องแถมยังบอกน้อง Sakimoto อีกว่า “อย่าทำหายอีกนะ” ^^ ซึ่งทั้งสองก็มีความสุขมากจริงๆกับการพบเจอกันในครั้งนี้และต่างคนต่างก็ไม่ได้ติดค้างอะไรในใจอีก จากนั้นผู้สื่อข่าวก็ถามคุณลุงถึงสาเหตุที่กล้าให้เงินคนที่ไม่รู้จักกันมาก่อนเพราะอะไร ลุงก็ตอบไปว่า “ตอนนี้เราอยู่ในศักราชเรวะ เราก็ควรเริ่มต้นด้วยความคิดดีๆ มากกว่าความสงสัยในตัวบุคคล ให้ลองเชื่อใจมนุษย์คนอื่นดูและหยิบยื่นความช่วยเหลือให้กับเขาเท่าที่เราจะทำได้ครับ” ส่วนน้อง Sakimoto ก็กล่าวเพิ่มเติมด้วยว่า “ผมจะไม่ลืมความรู้สึกดีๆที่ได้รับในวันนี้เลย และพอผมโตขึ้น ผมก็อยากจะเป็นผู้ที่ช่วยเหลือผู้ที่ตกทุกข์ได้ยากเช่นเดียวกับคุณลุงครับ”

猪野屋さんは、崎元君が特別なプレゼントを作ってくれてことをとても喜びます。彼も崎元君のために美しい贈り物を用意していました。「新しい財布」でした。崎元君にこれを渡します。「もう二度と失くしてはいけないよ」と言いながら…。二人は今回再会することができ、互いに心の中の思いを伝えることができました。その後レポーターは、猪野屋さんになぜ面識のまったくない誰かにお金をあげることをあえてしたかについて尋ねました。猪野屋さんは答えます。「令和という新しい時代に入りました。人を疑うことよりも、まずは人の善い考えから始めるべきです。他人を信頼し、できるだけ多くの人に手を差し伸べるようにしてください。」 一方の崎元君は、 「今日受けたこの素晴らしい気持ちを忘れることはありません。そして将来は、猪野屋さんと同じように、困っている人たちを助けられる大人になりたいです。」と話しました。

สุดท้ายยังมีข่าวดีอีกเรื่องก็คือ มีผู้พบกระเป๋าสตางค์ของน้อง Sakimoto ที่สถานีรถไฟและได้ส่งคืนให้กับเจ้าหน้าที่ ซึ่งเงินสดต่างๆของน้องยัง “อยู่ครบ” ตามสไตล์ญี่ปุ่นและน้องก็มารับไปเรียบร้อยแล้วด้วย ^^

最後に、もう一つ良いニュースがあります。 崎元君の財布は駅で見つけられ、モノレールの駅員に届けられていました。彼のお金は、そっくりそのまま戻ってきたのでした。

微笑みの国と呼ばれるタイ。
そしてそのことを誇りに感じているタイ人。
しかしながら、急速な都市化でバンコクでは、人々は微笑みを見せることが少なくなったという声もあります。
そんな世知辛いいまの時代だからこそ、こうした美談が好まれるのかもしれません。
この記事を読んで、微笑みを誘うだけでなく、”นี่แหละคือญี่ปุ่น”「これこそ日本だ」と感じたタイ人も多かったとか…
「I Love Japan」の記事にはこれからも注目していきます。
●タイ語については、僕自身がただいま勉強中です。
誤字脱字や誤訳などがありましたら、ご連絡いただければ幸いです。
記事引用 เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้
วันศุกร์, 24 พฤษภาคม 2562
https://www.ilovejapan.co.th/essentials/entry/feel-good-story-between-2-japanese-people


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เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้ 読むとホッとする二人の日本人のイイ話 その1

日本の文化や日本事情を紹介するタイのメディアが増えていることは、これまでもお伝えしているところです。
「I Love Japan」というテレビ番組もそのひとつです。
この番組「I Love Japan」は、教科書に載っている日本語のみならず、広く日本人の間で使われている表現も含めて、現在の日本語とニッポン事情を広く伝えています。
この「I Love Japan」のネット記事を見ていたところ、非常に興味深い記事を見つけました。
เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้ 「読むとホッとする二人の日本人のイイ話」と題するこの記事は、最近実際に沖縄県であった美談でした。
この記事を目にするまでは、こういったことが最近あったことは知りませんでした。
さすが、日本の細かいところまでよく見ています。
そして、こうした美談が好きなのは、日本もタイも同じなのですね。

เรื่องราวที่จะเล่าให้ฟังนี้เกิดขึ้นที่เมืองนาฮา จังหวัดโอกินาวะ และได้รับการเปิดเผยให้ทราบเป็นวงกว้างเมื่อวันอังคารที่ 21 พฤษภาคม 2019 ที่ผ่านมา โดยเป็นเรื่องราวของชายต่างวัยสองคนที่คนหนึ่งเป็นนักเรียนมัธยมปลายและอีกคนหนึ่งคือคุณหมอจากเมืองใหญ่ ซึ่งทั้งสองคนไม่เคยรู้จักกันมาก่อนแต่ก็ได้มาพบกันอีกครั้งเพื่อมอบบางอย่างที่ค้างคาใจให้กันและก็จบลงอย่าง Happy ending ผ่านการช่วยเหลือของสื่อมวลชนในท้องถิ่นครับ ซึ่งเรื่องทั้งหมดนี้ก็มีอยู่ว่า

今回お伝えするストーリーは沖縄県那覇市で実際にあった話で、これが明らかになったのは2019年5月21日火曜日のことです。それは世代の異なる2人の男性のストーリーであり、うちの1人は高校生で、もう1人は大都市から来た医師でした。それまで面識のなかった二人でしたが、彼らの心に残され何かを伝えるために、そしてハッピーエンドで終わるために、再び会うことになったのです。その陰には地元のマスコミの協力もありました。以下がそのストーリーです。

เมื่อวันที่ 24 เมษายน 2019 นักเรียนมัธยมปลายนายหนึ่งชื่อว่า น้อง Soma Sakimoto อายุ 17 ปี เป็นนักเรียนของ Okinawa Technical High School ในจังหวัดโอกินาวะ กำลังนั่งรถไฟ Monorail ไปที่สนามบินนาฮาอย่างเร่งด่วนเพื่อรีบซื้อตั๋วแล้วนั่งเครื่องบินกลับไปร่วมงานศพของคุณลุงที่บ้านเกิดของเขา ณ เกาะโยนากุนิซึ่งอยู่ห่างจากนาฮาออกไปอีกหลายร้อยกิโลเมตรซึ่งแน่นอนว่าการจากไปอย่างกะทันหันของคุณลุงทำให้เขาไม่ได้มีการซื้อตั๋วล่วงหน้ามาก่อน

2019年4月24日、沖縄県の沖縄工業高校の高校生である崎元颯馬君(17歳)は、モノレールに乗って那覇空港に急いでいました。那覇から数百キロも離れた故郷の与那国島に帰り、そこで叔父の葬儀に参加するためでした。叔父の突然の他界です。前もってチケットを買うことなどできるはずもありません。

จังหวะที่น้อง Sakimoto กำลังจะลงจากรถไฟที่สถานี Naha Airport ซึ่งเป็นสถานีสุดท้ายนั้น ปรากฏว่า น้องได้คลำกระเป๋าเงินและพบว่า “เขาทำกระเป๋าสตางค์หาย!!!” แน่นอนว่าเงินที่จะเอาไปซื้อตั๋วเครื่องบินก็หายไปด้วย! จังหวะที่น้องกำลังอึ้งอยู่นั้น ก็มีคุณลุงคนหนึ่งที่กำลังจะขึ้นรถไฟสังเกตเห็นท่าทางน้องกำลังเดือดร้อนก็เลยเข้าไปสอบถามว่าเกิดอะไรขึ้น น้อง Sakimoto จึงเล่าให้คุณลุงนิรนามคนนั้นฟังว่า เขาทำกระเป๋าสตางค์หายและต้องรีบซื้อตั๋วเครื่องบินกลับบ้านเกิด…….จังหวะนั้นเอง คุณลุงนิรนามก็ควักเงินออกมาให้น้อง 60,000 เยน (หกหมื่นเยน) ก่อนที่ประตูรถไฟจะปิดลงและทั้งสองก็แยกย้ายกันไป

崎元君が終着駅である那覇空港駅で電車を降りようとしていたまさにその時に気がつきました。財布に手を伸ばしたときに、その財布がなくなっていたことを…。もちろん、航空券を買うためのお金もなくなっています。彼は落胆し、途方に暮れてしまいます。その時に電車に乗りこんだ一人の男性がいました。男性は、困惑した様子の崎元君に気がつき、何が起こったのか尋ねます。崎元君は、財布をなくしてしまったことと、飛行機の切符を買い、急いで郷里に戻らなければならないことを、とっさに答えたのでした。名もなきその男性は、電車のドアが閉まる前に6万円でお金を出して崎元君に渡します。そして、崎元君は急いで空港に向かいました。

น้อง Sakimoto สามารถซื้อตั๋วเครื่องบินและขึ้นเครื่องได้ทันเวลาเพราะเงินที่คุณลุงนิรนามคนนั้นออกให้…ทว่าสิ่งที่น้อง Sakimoto รู้สึกอึดอัดใจเป็นอย่างมากหลังจากวันนั้นก็คือ เขาไม่มีโอกาสแม้กระทั่งจะถามชื่อหรือช่องทางการติดต่อคุณลุงผู้ใจดีคนนั้นเพื่อคืนเงินให้ได้เลย T_T

崎元君は飛行機の切符を買うことができ、フライトに間に合うことができました。それはもちろん名もなきその男性のおかげです。しかし、崎元君はその日から悶々としたふさいだ気持ちが募っていくことになります。彼はその心優しい男性の名前も連絡先も尋ねることができなかったからです。これでは借りたお金を返すことなどできるはずもありません。

หลังจากเสร็จธุระที่เกาะบ้านเกิดแล้ว น้อง Sakimoto รู้สึกไม่สบายใจในเรื่องดังกล่าวจนกระทั่งเขาได้เล่าถึงเหตุการณ์ดังกล่าวให้คุณครูประจำชั้นและขอคำแนะนำ ซึ่งคุณครูประจำชั้นก็ให้คำแนะนำว่าให้ลองติดต่อสื่อมวลชนท้องถิ่นดู ไม่นานนักสื่อมวลชนท้องถิ่นก็ตกลงที่จะเผยแพร่เรื่องราวของน้อง Sakimoto และประกาศตามหาคุณลุงนิรนามผู้ใจดีคนนั้นให้ด้วยความเต็มใจ

故郷での葬儀を終えたあとも、崎元君の気持ちが晴れることはありませんでした。そこで、彼は学級担任の先生に、その時の出来事の一部始終を話し、アドバイスを求めたのです。学級担任の先生は、地元のマスコミに連絡を取ってみるようアドバイスします。その後、地元のマスコミ関係者は、崎元君の話を公表することに同意しました。そして崎元君が、名もなき心優しいその男性を懸命に探していることを発表したのです。


เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้ 読むとホッとする二人の日本人のイイ話 その2
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軌間 その4 改軌そして東南アジアの鉄道網

改軌とは、異なる軌間を変更すること言う。
工事の方法は、一般的には既にある2本あるレールにもう1本改軌後のレールを敷いて、その後不要の1本を撤去する方法である。
工事期間中も列車の運行は続いているので、このような手法が取られることになる。
とはいえこの改軌工事は、相当な労力と時間を伴うことは想像に難くない。
この難工事をいまからおよそ100年前に敢行した国がある。
それがタイ王国である。

タイの鉄道は1890年代に始まった。
最初の路線は1893年に開通したバンコク市内からのパークナムまでの民間鉄道であるパークナム鉄道であった。(現在は廃線)。
その後1897年3月にバンコク-アユタヤ間が開通し、これが国鉄最初の路線となった。
その起点となった駅が現在のフワランポーン駅 (สถานีรถไฟกรุงเทพ・バンコク中央駅)である。
その当時採用された軌間が標準軌(1,435 mm)だった。
フワランポーン駅を起点とする北線・東北線は、この標準軌によって敷設された。
ところが南部では標準軌ではなく、狭軌が使われていた。
メーターゲージと呼ばれた1,000ミリ幅の狭軌が使われたのである。
このメーターゲージは東南アジア諸国に特有のもので、他にベトナムやカンボジアといった北部仏印でも採用されていた。(そのため通称 “インドシナ標準軌”とも呼ばれる)
英国領のマレー半島にも鉄道が敷設されたが、この時に使われたのがメーターゲージだった。
諸説あるものの、建設コストの面からあるいはマレー半島への接続を意図したのか、南線はメーターゲージが採用された。
このようにして初期のタイの鉄道は標準軌と狭軌(メーターゲージ)の二つの軌間が並立することになった。
路線の拡大に伴って、この二つの軌間の並立を危惧する意見が出るようになる。
また南線のバンコクの起点がトンブリー地区のバンコクノイ駅で、この駅はいまのフワランポーン駅と異なり、チャオプラヤー川を隔てた西側の対岸に位置していた。
こうした問題の解消に向けて動いたのが、当時の鉄道局総裁であったカムペーンペット親王だった。
チャオプラヤー川の架橋と南線の延長を計画し、南線をフワランポーン駅と直結する工事を行った。
また北線や東線、東北線といった既に標準軌で敷設させた路線は、メーターゲージへの改軌を実施した。
軌間が統一されることは、交通運輸としての利便性は格段に向上する。
しかし、その反面では国土の防衛上の観点からは大きなリスクを伴う。
隣国から攻められやすくなってしまうのだ。
当時は南のマレー半島を英国が支配し、北の北部インドシナをフランスが支配していた。
タイは独立国家ではあったが、位置的にはフランスと英国の間に挟まれた緩衝地帯だとの声もあった。
だから隣国からの防衛を重要視するのは当然の発想である。
国の独立は絶対に守らなければいけない。
こうした中、隣国と軌間を同じくすることに慎重な意見が出るのは無理からぬ話であった。
しかし、カムペーンペット親王は軌間の不統一は、将来に大きな禍根を残すことになると考えた。
そして、遠い将来は、東南アジア諸国に広がる大きな鉄道網を築き上げていくことを思い描いたのだった。
かくして工事は敢行される。
1920年のことであった。
10年後に改軌工事は完成し、タイ全土は一つの線路で結ばれることとなった。
完成したチャオプラヤー川に架かる橋は「ラーマ六世橋」と名付けられた。

フワランポーン駅

それからおよそ100年。タイの鉄道の状況はどうなったのか。
バンコク首都圏では、地下鉄やBTS、エアポートレールリンクなど新しい鉄道が登場し、市民や観光客の利便性を格段に向上させた。
ところが、従前の国鉄は一世紀が経過しても、旧態依然とした路線が多い。
新たな路線が築かれることも少なく、全路線の9割は未だに単線区間である。
それ故に、運行の遅延も多発して、人気は今ひとつといった感が否めない。
サービスの良い高速バスや近年のLCCの登場は、結果として旅行客の足を奪っていった。
隣国との路線はまだまだ限定的である。
南線の終着駅であるパダンブサールでマレー鉄道に接続している。
また、距離は短いものの、ノーンカーイ駅(タイ) – ターナレーン駅(ラオス)との国際列車も始められたという。
その一方、ミャンマーやカンボジアとを結ぶ線路は、戦争と国家体制の違いから切断されたままで、その後の復旧には至っていない。
国際列車運行の計画はあるものの、その実現までの道のりは長いものになりそうだ。
こうした国境を超える路線が、もっと充実してほしいと思う。
誰もが気楽に安全な国際列車の旅を楽しめる、そんな平和な社会になってほしいと切に願っている。
かつてカムペーンペット親王が思い描いた東南アジア諸国を結ぶ鉄道網の完成を心待ちにしている。

参考文献
柿崎一郎 「王国の鉄路 タイ鉄道の歴史」 (京都大学学術出版会)
小池 滋/青木 栄一/和久田 康雄 「鉄道の世界史」 (悠書館)


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軌間 その3 相互直通運転

相互直通運転の一例をあげると東京メトロ副都心線の例がある。
東京メトロ副都心は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都渋谷区の渋谷駅を結ぶ東京地下鉄(東京メトロ)の鉄道路線である。
東京メトロ副都心線は、東京地下鉄(東京メトロ)を含めた鉄道5事業者(東武・西武・東京地下鉄・東急・横浜高速鉄道)による相互直通運転が行われており、埼玉県西部の滑川町・川越市・飯能市・所沢市の各方面から神奈川県横浜市までの広域な鉄道網が形成されている。
和光市駅を介して東武東上線への直通運転を行っている。
また、小竹向原駅から西武有楽町線を経由して西武池袋線飯能駅までの直通運転を行っている。
一方、渋谷駅で東急東横線と、さらに東横線の終点である横浜駅から横浜高速鉄道みなとみらい線に乗り入れ、元町・中華街駅まで直通運転を行っている。
このような直通運転は、日本では大都市の地下鉄が郊外への私鉄路線と直通運転するものが代表的であるが、本格的に異事業者間で直通運転が始まったのは1960年代に入ってからである。
昭和35年(1960年)12月に都営地下鉄浅草線の押上 – 浅草橋間が開業した。
同時に押上駅を介して京成押上線・京成本線と直通運転を開始した。
これは地下鉄と郊外の民間鉄道事業者による初の直通運転となった。
その後都営地下鉄浅草線は、昭和43年(1968年)6月に大門 – 泉岳寺間を開業させる。
同時に泉岳寺駅を介して京浜急行電鉄と直通運転を開始した。

相互直通運転のメリットは、異なる路線へ乗り換えなしで往来を可能にさせたことや乗り換えによる所要時間の減少させたこと、また乗換駅の混雑緩和させたことなどが挙げられる。
鉄道網の利便性が向上されたことによって、郊外の発展にも寄与したことも、相互直通運転がもたらした大きな利点であった。
ちなみに、現在の都営地下鉄浅草線は、従来の京成電鉄及び京浜急行電鉄に加え、北総開発鉄道(現・北総鉄道)、芝山鉄道との直通運転を行っており、千葉県の白井市・印西市・船橋市・成田市・芝山町から都心を経由して、神奈川県逗子市・横須賀市・三浦市にわたる広域の鉄道網が形成されることとなった。
また、東京の空の玄関である羽田空港(京浜急行電鉄)と成田空港(京成電鉄)の双方が直通運転される路線となり、いまや両空港を結ぶ大動脈となっている。
旅行者の立場から見ても、この路線の利用価値は絶大であると言える。
相互直通運転が可能になるためには、当然のことであるが、乗り入れる双方の事業者間の軌間が同一であることが大前提である。
軌間が異なれば、相互直通運転は断念しなければならない。
現在の直通相互運転の大きな発展の背景には、民間鉄道の黎明期に、遠い将来を見据えて軌間の統一を図った先見の明があったからに他ならないのである。

4線直通運転開始記念乗車券
4線直通運転開始記念乗車券
写真は、京浜急行電鉄、都営地下鉄、京成電鉄、北総開発鉄道(現・北総鉄道)の4事業者の相互直通運転開始を記念して発売された記念乗車券(京浜急行電鉄発行)。
軌間同じくすれば、直通運転可能な巨大鉄道網の形成も可能になる。

軌間 その4 改軌そして東南アジアの鉄道網
https://ponce07.com/track-gauge-04/

軌間 その2 弾丸列車計画と新幹線

昭和7年(1932年)ころ、日本から朝鮮半島・中国大陸へ向かう輸送需要は年々急増していた。
その前年(昭和6年)には満州事変が勃発し、翌年(昭和7年)には満州国も成立したためであった。
東京や大阪から満州へ向かう当時の最速ルートは、まず東海道本線・山陽本線で下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山に上陸後、さらに朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満州鉄道(満鉄)を利用するというルートであった。
ところが、その当時すでに東海道本線と山陽本線は輸送力が逼迫した状態であった。
その頃はすでに、四大工業地帯といわれる京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯及び北九州工業地帯が形成されていたことから、人やモノの流れが集中した。
東海道本線と山陽本線の総延長は当時の国鉄線の7%程度に過ぎなかったものの、輸送量は全体の約3割を占めていた。
特に昭和12年(1937年)7月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まると、このままの状態では輸送量の増加に対処しきれなくなるとの恐れがあった。
そこで昭和13年(1938年)に当時の鉄道省は輸送力強化に関する調査研究に着手し、輸送力拡大のための方策が具体的に検討されるようになり、結論として早期に同区間に別線の高規格鉄道を敷くことが必要であるということになった。
国鉄では鉄道開通以来狭軌(1,067mm)を採用しているが、将来的に輸送量の増加が見込まれる東海道本線・山陽本線の別線として、東京~下関間に標準軌(1,435mm)で高速鉄道線を建設するという計画が起こる。
広軌を使用すれば高速運転ができるだけでなく、大陸の鉄道である満鉄や鮮鉄が標準軌を採用していたので、それらとの直通運転が可能になる。
軍事輸送の面からも有利という理由で標準軌が採用されたのである。
また、連絡船を使用する事で将来的には東京とアジアを結ぶ路線の一端を担う計画もその背景にあった。
この高規格鉄道は、当時新聞など世間一般では弾丸のように速い列車であるという形容として「弾丸列車」という語が使われた。
昭和14年に建設が正式に決定されると翌昭和15年には予算案が通過し、工事が開始される。
そして昭和16年には難工事が予想された日本坂トンネルと新丹那トンネルの工事が着工された。
当初は昭和25年の開業を目指して工事が行われたが、後に昭和29年開業に変更される。
しかし、戦争の激化に伴い昭和18年に工事は中止され、その後敗戦を迎えることとなった。

弾丸列車計画自体は実現することはなかったが、戦後の復興と共に鉄道および道路輸送の需要が増大すると、東海道本線の貨客輸送能力は逼迫し、新たに東海道新幹線が計画されることになる。
昭和20年代の国鉄は旧軍出身の技術者を多数獲得し、彼らがその後新幹線計画を進めることになる。
弾丸列車計画時に買収された土地の返還訴訟が起きていたが、この東海道新幹線計画が決定したことを受けて東京~大阪間で取得していた土地に関しては東海道新幹線にて使用されることとなり、また弾丸列車計画において工事が進められていた日本坂トンネル・新丹那トンネルなどは東海道新幹線で使用されることとなった。
弾丸列車計画において設置される予定だった駅は東京から順に横浜・小田原・熱海・沼津・静岡・浜松・豊橋・名古屋・京都・大阪・神戸・姫路・岡山・広島・下関となっていた。
こうしてみると、のちの東海道新幹線・山陽新幹線の停車駅と酷似しているのがよくわかる。
そして昭和34年4月に新幹線建設が起工する。
1,435mm標準軌を使用した本格的な長距離高速鉄道である。
戦時下で軍事色の強い「弾丸列車」計画が、戦後に「新幹線」と形を変え、昭和39年10月に東京オリンピックの開催に合わせて開業することとなった。
しかしそれは同じ国鉄線で在来線1,067 mm、新幹線1,435 mmと二つの軌間が併存することの始まりでもあった。

軌間 その3 相互直通運転
https://ponce07.com/track-gauge-03/