アーミー・メソッドとドナルド・キーン  その2

青年は、自分を取り巻く世界の嫌なものすべてから逃れるために、日本という美の国の『源氏物語』の世界に没頭していた。

ニューヨーク市で生まれた彼は、成績優秀により「飛び級」を繰り返し、16歳でニューヨークのコロンビア大学文学部に入学していた。

しかし、明るい将来が見えていたかと言えば、決してそうではなかった。

恐れていた現実が近づいている。

世界は戦争に傾いていたのだ。

たまたま書店で手にした英訳の『源氏物語』に心を奪われた。

暗く将来が見えない不安と恐怖心。

『源氏物語』の世界と自分のいる世界を比べていた。

そこには戦争がなかった。

受講していた「日本思想史」の角田柳作先生が、敵国外国人の嫌疑をかけられ、拘束されたこともあった。

からっぽの教室を見て、自分の学生生活が終わろうとしているのを実感した。

銃剣を持って突撃する自分の姿は想像できなかった。

海軍の語学学校で翻訳と通訳の候補生を養成していることを知り、入学を志願した。

 

海軍語学学校での授業が始まった。

授業は週六日、一日四時間で、毎週土曜日に試験があった。

二時間が読解、一時間が会話、一時間が書き取りだった。

さらに翌日の授業に備えて少なくとも四時間は予習が必要だった。

講師は主に日系人が担当していた。

アメリカで生まれ、日本で教育を受け、アメリカに戻ってきた日系アメリカ人たちだった。

彼らは熱意をもって自分の仕事に打ち込んでいた。

彼らは学生たちの日本語の上達を喜んだ。

講師と学生たちとの間に、強いきずなが生まれるのに長い時間はかからなかった。

11か月のプログラムが終了した。

そのとき彼は、印刷された日本語だけでなく、草書も読むことが出来ていた。

手紙や報告書などを日本語で記すことも可能になっていた。

彼は卒業生総代として「告別の辞」を述べていた。

一年前までは一言も話せなかった日本語でである。

 

海軍の語学学校を卒業した彼の最初の赴任地は、真珠湾であった。

そこでの任務は、押収された日本語の文書を翻訳する作業であった。

文書はガダルカナル島で採集されたものだった。

翻訳は、日本軍の残した日課の報告書のようなものが多く、作業は退屈なものだった。

そんななかで目を引いたもの、それは「日記」だった。

多くは、日本兵の死体から抜き取られたものであった。

血痕が付着していて、不快な異臭がした。

しかし、これらの日記は、時に堪えられないほど感動的で、一兵士の最後の日々の苦悩が記録されていた。

はじめは愛国的な常套句で埋められたページも、戦場で自分の最期が近づいているのを感じるにつれ、偽りを書くことはなくなり、「本当の思い」が綴られる。

なかには最後に英文で伝言が記してあるものもあった。

伝言は日記を発見したアメリカ人に宛てたもので、「戦争が終わったらこの日記を家族に届けてほしい」と書かれていた。

日本の地を踏んだことのない彼が、本当の意味で知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだった。

出会ったその時には、すでに死んでいた人たちではあったが。

のちに日本文学史における日記文学の独自性と豊かさを探求した名著である『百代の過客』が書かれることになるが、その原点となったのは、このときの日記の翻訳体験に他ならなかったのである。

 

1945年4月1日、沖縄に上陸する。

洞窟に隠れた民間人が多かった。

彼は洞窟を片端から歩き回り、中に誰か隠れていないか呼びかけた。

日本兵のなかには自爆する者もいた。

民間人が自殺する姿を目の当たりにしたこともあった。

 

多くの日本人捕虜の中に、記憶に残る若い将校がいた。

学徒兵だった。

この若い海軍将校は、敵としてではなく、同じ学徒兵として話がしたいという。

この海軍将校が彼に尋ねる。

このまま自分が生き続けなければならない理由が何かあるだろうかと。

彼は自信を持って答えた。

生きて、新しい日本のために働くように、と。

 

沖縄での軍務は7月まで続く。

終戦の玉音放送はグアムの収容所で日本人捕虜とともに聞いた。

アメリカ海軍の通訳として日本と対峙していた彼の「戦争」が終った。

戦争がきっかけではあったが、日本語という大きな宝物を得た。

この知識を棄てたくないという思いから、彼はコロンビア大学へ戻る。

日本文学の研究を続け、その後念願かない京都に留学することになる。

川端康成や三島由紀夫など日本を代表する作家との交遊を通じて、文学研究を豊かにした。

数多くの日本の作家の翻訳を手掛けたほか、「源氏物語」や「奥の細道」など日本の古典文学を海外に紹介してきた。

その後、コロンビア大学で教鞭を取る傍ら、日米を行き来していたが、東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得した。

被災した人々の忍耐強さを目の当たりにしたのがその理由だという。

 

彼はすでに多くの業績を生み出していた。

外国人の学術研究者として史上初めての文化勲章を受章した。

かつての沖縄戦で日本人の投降を呼びかけていた青年。

その後、日本文学の世界に身を投じ、日本人以上にその研究に没頭し、優れた業績を遺した。

多くの人々に愛された彼が、2019年2月に96年間の生涯を閉じたのは、終の棲家として永住を決めた日本の東京であった。

 

 

参考文献

ドナルド・キーン自伝(中公文庫) ドナルド・キーン著 角地幸男訳

日本語教育能力検定試験 完全攻略ガイド(‎翔泳社)

 

 

アーミー・メソッドとドナルド・キーン  その1

「外国語を学び始めたきっかけは」と聞かれれば、「その国が好きだから」とか「その国でもっと自由に旅行したいから」と答えるかもしれない。

学生のなかには、「学校の勉強や入学試験のために仕方なくさせられているから」という答えもあるかもしれない。

しかし勉強を続けるうちに、「仕方ないから勉強する」といった外発的な動機づけから、学習者の内側からくる動機づけに変化していくこともある。

自発的に沸き起こる知的好奇心から、「面白いから勉強する」「外国の人と友達になりたいから勉強する」という内発的な動機づけへの変化である。

それは平和で自由な社会だからこそ可能なのかもしれない。

もし、学び始めたそのときに「戦争」があったとしたら…

 

近世になり産業革命が興り、大量生産が行われるようになり、経済活動が盛んになる。

経済活動が活発になれば、貿易などを通じて人々の国境を越えた行き来が増え、外国語の必要性が高まる。

こうした背景から、19世紀から20世紀にかけてさまざまな外国語教授法が盛んに研究されるようになった。

古典的な「文法訳読法(Grammar Translation Method)」のような、母国語への翻訳を中心にした教授法から脱却し、「ナチュラル・メソッド(Natural Method自然主義教授法)」や「オーラルメソッド(Oral Method)」といった、直接法による教授法、とりわけ聴解力重視した「話せる外国語」の教授法が開発されたのがこの頃である。

そんな中で、最も成果の上がった学習法として知られているのが、アーミー・メソッド(ASTP(Army Specialized Training Program))であった。

戦争遂行のために、諜報活動が必要になる。

そのために兵士に、敵国の言語を習得させなければならない。

それも、短時間で実践的なレベルまで習得させなければならなかった。

そこで行動主義心理学に基づいた教授法が開発されたのである。

行動主義心理学に基づいた教授法とは、外部からの刺激に反応し、それが習慣化すること、つまり教師が刺激を与え、学習者は条件反射的に学習させられるという教授法であった。

かの有名な「パブロフの犬」の理論のごとく、反射的に外国語が発声できるような、ある種人間性を否定させられるような、過激な学習方法でもあった。

 

まったく余計な話ではあるが、日本では同じ時期に、英語は「敵性語」として扱われ、一切の英語教育が排除されていた。

一方のアメリカでは敵国の言語を積極的に教育し、戦略的に活用しようとしていたのである。

この違いは、「言霊」の思想に強く裏付けられた日本人と、そうではないアメリカ人の差なのかもしれない。

アーミー・メソッドプログラムによる授業は、アメリカ人教官とネイティブスピーカーの教官の分業で行われた。

アメリカ人の教官が、読解、翻訳など言語の構造について母語で教え、また、インフォーマントと呼ばれるネイティブスピーカーの教官行う口頭練習からなる授業であった。

インフォーマントは、モデルとしての発話を示す者のことで、日系人が務めた。

モデルが提示された後、ドリルマスターによる口頭での反復練習を行う。

ネイティブによる口頭練習により多くの時間が割かれ、徹底した暗記と反復練習が行われていた。

行動主義心理学に基づく習慣形成という考えが背景にあったため、ネイティブの言語に触れて、とにかくそれを模倣、暗記することで言語が習得されると考えられていたからであった。

口頭練習を指揮するドリルマスターによる集中的な口頭練習は、「練習」というよりも、「訓練」であったのである。

そして、自動的に話せるようになるまで基本文を徹底的に暗記させられていたのであった。

 

このアーミー・メソッドは、短時間のうちに流暢な話者を養成できたメリットはあるものの、反復練習は単調なものになりがちであるうえ、学習者に過度の緊張をもたらしたのも事実であった。

アーミー・メソッドによって日本語を学んだ学生の中に、その青年がいた。

のちに、日本文学研究者となったドナルド・キーン(Donald Keene)である。

 

アーミー・メソッドとドナルド・キーン その2

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