軌間 その4 改軌そして東南アジアの鉄道網

改軌とは、異なる軌間を変更すること言う。
工事の方法は、一般的には既にある2本あるレールにもう1本改軌後のレールを敷いて、その後不要の1本を撤去する方法である。
工事期間中も列車の運行は続いているので、このような手法が取られることになる。
とはいえこの改軌工事は、相当な労力と時間を伴うことは想像に難くない。
この難工事をいまからおよそ100年前に敢行した国がある。
それがタイ王国である。

タイの鉄道は1890年代に始まった。
最初の路線は1893年に開通したバンコク市内からのパークナムまでの民間鉄道であるパークナム鉄道であった。(現在は廃線)。
その後1897年3月にバンコク-アユタヤ間が開通し、これが国鉄最初の路線となった。
その起点となった駅が現在のフワランポーン駅 (สถานีรถไฟกรุงเทพ・バンコク中央駅)である。
その当時採用された軌間が標準軌(1,435 mm)だった。
フワランポーン駅を起点とする北線・東北線は、この標準軌によって敷設された。
ところが南部では標準軌ではなく、狭軌が使われていた。
メーターゲージと呼ばれた1,000ミリ幅の狭軌が使われたのである。
このメーターゲージは東南アジア諸国に特有のもので、他にベトナムやカンボジアといった北部仏印でも採用されていた。(そのため通称 “インドシナ標準軌”とも呼ばれる)
英国領のマレー半島にも鉄道が敷設されたが、この時に使われたのがメーターゲージだった。
諸説あるものの、建設コストの面からあるいはマレー半島への接続を意図したのか、南線はメーターゲージが採用された。
このようにして初期のタイの鉄道は標準軌と狭軌(メーターゲージ)の二つの軌間が並立することになった。
路線の拡大に伴って、この二つの軌間の並立を危惧する意見が出るようになる。
また南線のバンコクの起点がトンブリー地区のバンコクノイ駅で、この駅はいまのフワランポーン駅と異なり、チャオプラヤー川を隔てた西側の対岸に位置していた。
こうした問題の解消に向けて動いたのが、当時の鉄道局総裁であったカムペーンペット親王だった。
チャオプラヤー川の架橋と南線の延長を計画し、南線をフワランポーン駅と直結する工事を行った。
また北線や東線、東北線といった既に標準軌で敷設させた路線は、メーターゲージへの改軌を実施した。
軌間が統一されることは、交通運輸としての利便性は格段に向上する。
しかし、その反面では国土の防衛上の観点からは大きなリスクを伴う。
隣国から攻められやすくなってしまうのだ。
当時は南のマレー半島を英国が支配し、北の北部インドシナをフランスが支配していた。
タイは独立国家ではあったが、位置的にはフランスと英国の間に挟まれた緩衝地帯だとの声もあった。
だから隣国からの防衛を重要視するのは当然の発想である。
国の独立は絶対に守らなければいけない。
こうした中、隣国と軌間を同じくすることに慎重な意見が出るのは無理からぬ話であった。
しかし、カムペーンペット親王は軌間の不統一は、将来に大きな禍根を残すことになると考えた。
そして、遠い将来は、東南アジア諸国に広がる大きな鉄道網を築き上げていくことを思い描いたのだった。
かくして工事は敢行される。
1920年のことであった。
10年後に改軌工事は完成し、タイ全土は一つの線路で結ばれることとなった。
完成したチャオプラヤー川に架かる橋は「ラーマ六世橋」と名付けられた。

フワランポーン駅

それからおよそ100年。タイの鉄道の状況はどうなったのか。
バンコク首都圏では、地下鉄やBTS、エアポートレールリンクなど新しい鉄道が登場し、市民や観光客の利便性を格段に向上させた。
ところが、従前の国鉄は一世紀が経過しても、旧態依然とした路線が多い。
新たな路線が築かれることも少なく、全路線の9割は未だに単線区間である。
それ故に、運行の遅延も多発して、人気は今ひとつといった感が否めない。
サービスの良い高速バスや近年のLCCの登場は、結果として旅行客の足を奪っていった。
隣国との路線はまだまだ限定的である。
南線の終着駅であるパダンブサールでマレー鉄道に接続している。
また、距離は短いものの、ノーンカーイ駅(タイ) – ターナレーン駅(ラオス)との国際列車も始められたという。
その一方、ミャンマーやカンボジアとを結ぶ線路は、戦争と国家体制の違いから切断されたままで、その後の復旧には至っていない。
国際列車運行の計画はあるものの、その実現までの道のりは長いものになりそうだ。
こうした国境を超える路線が、もっと充実してほしいと思う。
誰もが気楽に安全な国際列車の旅を楽しめる、そんな平和な社会になってほしいと切に願っている。
かつてカムペーンペット親王が思い描いた東南アジア諸国を結ぶ鉄道網の完成を心待ちにしている。

参考文献
柿崎一郎 「王国の鉄路 タイ鉄道の歴史」 (京都大学学術出版会)
小池 滋/青木 栄一/和久田 康雄 「鉄道の世界史」 (悠書館)


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軌間 その3 相互直通運転

相互直通運転の一例をあげると東京メトロ副都心線の例がある。
東京メトロ副都心は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都渋谷区の渋谷駅を結ぶ東京地下鉄(東京メトロ)の鉄道路線である。
東京メトロ副都心線は、東京地下鉄(東京メトロ)を含めた鉄道5事業者(東武・西武・東京地下鉄・東急・横浜高速鉄道)による相互直通運転が行われており、埼玉県西部の滑川町・川越市・飯能市・所沢市の各方面から神奈川県横浜市までの広域な鉄道網が形成されている。
和光市駅を介して東武東上線への直通運転を行っている。
また、小竹向原駅から西武有楽町線を経由して西武池袋線飯能駅までの直通運転を行っている。
一方、渋谷駅で東急東横線と、さらに東横線の終点である横浜駅から横浜高速鉄道みなとみらい線に乗り入れ、元町・中華街駅まで直通運転を行っている。
このような直通運転は、日本では大都市の地下鉄が郊外への私鉄路線と直通運転するものが代表的であるが、本格的に異事業者間で直通運転が始まったのは1960年代に入ってからである。
昭和35年(1960年)12月に都営地下鉄浅草線の押上 – 浅草橋間が開業した。
同時に押上駅を介して京成押上線・京成本線と直通運転を開始した。
これは地下鉄と郊外の民間鉄道事業者による初の直通運転となった。
その後都営地下鉄浅草線は、昭和43年(1968年)6月に大門 – 泉岳寺間を開業させる。
同時に泉岳寺駅を介して京浜急行電鉄と直通運転を開始した。

相互直通運転のメリットは、異なる路線へ乗り換えなしで往来を可能にさせたことや乗り換えによる所要時間の減少させたこと、また乗換駅の混雑緩和させたことなどが挙げられる。
鉄道網の利便性が向上されたことによって、郊外の発展にも寄与したことも、相互直通運転がもたらした大きな利点であった。
ちなみに、現在の都営地下鉄浅草線は、従来の京成電鉄及び京浜急行電鉄に加え、北総開発鉄道(現・北総鉄道)、芝山鉄道との直通運転を行っており、千葉県の白井市・印西市・船橋市・成田市・芝山町から都心を経由して、神奈川県逗子市・横須賀市・三浦市にわたる広域の鉄道網が形成されることとなった。
また、東京の空の玄関である羽田空港(京浜急行電鉄)と成田空港(京成電鉄)の双方が直通運転される路線となり、いまや両空港を結ぶ大動脈となっている。
旅行者の立場から見ても、この路線の利用価値は絶大であると言える。
相互直通運転が可能になるためには、当然のことであるが、乗り入れる双方の事業者間の軌間が同一であることが大前提である。
軌間が異なれば、相互直通運転は断念しなければならない。
現在の直通相互運転の大きな発展の背景には、民間鉄道の黎明期に、遠い将来を見据えて軌間の統一を図った先見の明があったからに他ならないのである。

4線直通運転開始記念乗車券
4線直通運転開始記念乗車券
写真は、京浜急行電鉄、都営地下鉄、京成電鉄、北総開発鉄道(現・北総鉄道)の4事業者の相互直通運転開始を記念して発売された記念乗車券(京浜急行電鉄発行)。
軌間同じくすれば、直通運転可能な巨大鉄道網の形成も可能になる。

軌間 その4 改軌そして東南アジアの鉄道網
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軌間 その2 弾丸列車計画と新幹線

昭和7年(1932年)ころ、日本から朝鮮半島・中国大陸へ向かう輸送需要は年々急増していた。
その前年(昭和6年)には満州事変が勃発し、翌年(昭和7年)には満州国も成立したためであった。
東京や大阪から満州へ向かう当時の最速ルートは、まず東海道本線・山陽本線で下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山に上陸後、さらに朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満州鉄道(満鉄)を利用するというルートであった。
ところが、その当時すでに東海道本線と山陽本線は輸送力が逼迫した状態であった。
その頃はすでに、四大工業地帯といわれる京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯及び北九州工業地帯が形成されていたことから、人やモノの流れが集中した。
東海道本線と山陽本線の総延長は当時の国鉄線の7%程度に過ぎなかったものの、輸送量は全体の約3割を占めていた。
特に昭和12年(1937年)7月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まると、このままの状態では輸送量の増加に対処しきれなくなるとの恐れがあった。
そこで昭和13年(1938年)に当時の鉄道省は輸送力強化に関する調査研究に着手し、輸送力拡大のための方策が具体的に検討されるようになり、結論として早期に同区間に別線の高規格鉄道を敷くことが必要であるということになった。
国鉄では鉄道開通以来狭軌(1,067mm)を採用しているが、将来的に輸送量の増加が見込まれる東海道本線・山陽本線の別線として、東京~下関間に標準軌(1,435mm)で高速鉄道線を建設するという計画が起こる。
広軌を使用すれば高速運転ができるだけでなく、大陸の鉄道である満鉄や鮮鉄が標準軌を採用していたので、それらとの直通運転が可能になる。
軍事輸送の面からも有利という理由で標準軌が採用されたのである。
また、連絡船を使用する事で将来的には東京とアジアを結ぶ路線の一端を担う計画もその背景にあった。
この高規格鉄道は、当時新聞など世間一般では弾丸のように速い列車であるという形容として「弾丸列車」という語が使われた。
昭和14年に建設が正式に決定されると翌昭和15年には予算案が通過し、工事が開始される。
そして昭和16年には難工事が予想された日本坂トンネルと新丹那トンネルの工事が着工された。
当初は昭和25年の開業を目指して工事が行われたが、後に昭和29年開業に変更される。
しかし、戦争の激化に伴い昭和18年に工事は中止され、その後敗戦を迎えることとなった。

弾丸列車計画自体は実現することはなかったが、戦後の復興と共に鉄道および道路輸送の需要が増大すると、東海道本線の貨客輸送能力は逼迫し、新たに東海道新幹線が計画されることになる。
昭和20年代の国鉄は旧軍出身の技術者を多数獲得し、彼らがその後新幹線計画を進めることになる。
弾丸列車計画時に買収された土地の返還訴訟が起きていたが、この東海道新幹線計画が決定したことを受けて東京~大阪間で取得していた土地に関しては東海道新幹線にて使用されることとなり、また弾丸列車計画において工事が進められていた日本坂トンネル・新丹那トンネルなどは東海道新幹線で使用されることとなった。
弾丸列車計画において設置される予定だった駅は東京から順に横浜・小田原・熱海・沼津・静岡・浜松・豊橋・名古屋・京都・大阪・神戸・姫路・岡山・広島・下関となっていた。
こうしてみると、のちの東海道新幹線・山陽新幹線の停車駅と酷似しているのがよくわかる。
そして昭和34年4月に新幹線建設が起工する。
1,435mm標準軌を使用した本格的な長距離高速鉄道である。
戦時下で軍事色の強い「弾丸列車」計画が、戦後に「新幹線」と形を変え、昭和39年10月に東京オリンピックの開催に合わせて開業することとなった。
しかしそれは同じ国鉄線で在来線1,067 mm、新幹線1,435 mmと二つの軌間が併存することの始まりでもあった。

軌間 その3 相互直通運転
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軌間 その1 「飛び地」の新幹線

九州の博多から鹿児島中央に直通の新幹線が全線開業したのは平成23年(2011年)のこと。
福岡から鹿児島への所要時間が圧倒的に短縮されたばかりでなく、山陽新幹線の乗り入れも実現している。
博多駅 – 鹿児島中央駅間が最短で1時間16分に、博多駅 – 熊本駅間が最短で32分という速さである。
朝の7時に鹿児島を出ても、福岡市内での9時の会議に十分間に合うほどになった。
ところがもう一つのルートである西九州ルート(長崎ルート)の建設は困難な状況になっている。
というのも西九州ルート(長崎ルート)は当初、フリーゲージトレインで博多駅から佐賀県の新鳥栖まで九州新幹線鹿児島ルートを走り、武雄温泉まで在来線を走行、武雄温泉から長崎までは新設する新幹線の線路を通す計画だった。
フリーゲージトレインとは、軌間可変電車とも呼ばれ、これは主に標準軌(1,435 mm)と狭軌(1,067 mm)の両方の線路上を走行することのできる車両で、現在開発の途上にある。
しかし、そのフリーゲージトレインの開発が難航した。
西九州ルート(長崎ルート)向けの車両耐久走行試験は平成26年(2014年)10月から進められたが、車軸付近にひびや摩耗が発見され、試験中断に追い込まれた。
そして、ついに西九州ルート(長崎ルート)でのフリーゲージ計画は断念されるに至った。
しかし武雄温泉から長崎まで新設工事は、標準軌(新幹線の軌間)で工事が既に始まっている。
その結果、武雄温泉駅で乗り換えを必要とする「リレー方式」が採用される結果になってしまった。
直通ではない、いわゆる「飛び地」の新幹線である。
どうしてこのような「飛び地」が出来あがったのだろうか。
それは、言うまでもなく軌間の違いによる。
そもそも、なぜこのように軌間に違いがあるのだろうか。
軌間とは2本のレールの内側の幅のことをいう。
同じJR線でも在来線の1,067 mm、新幹線の1,435 mmと違いがある。
ここで、この軌間の歴史を少しだけ振り返ってみたい。

建設中の九州新幹線西九州ルート(長崎市)
日本で最初に開業した鉄道は明治5年(1872年)のことである。
開業した区間は、新橋駅 – 横浜駅間であった。
その時に採用された軌間は、標準軌 (1,435 mm) より狭い狭軌の1,067 mmだった。
この標準軌の起源は、英国の炭鉱で使われていた鉄道馬車の軌間と言われている。
その軌間が4フィート8.5インチ(1,435 mm)だった。
のちにジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために蒸気機関車を製造した。
その後はこのときに使われた機関車と同じ設計で機関車が作られたことから、英国各地で急速に普及した鉄道は、4フィート8.5インチの軌間が採用されたことになる。
こうして鉄道の普及は4フィート8.5インチの軌間の普及を意味しており、これが標準軌 と呼ばれるようになる。
一方で、狭軌(Narrow gauge)と呼ばれていた1,067mm(3フィート6インチ)のゲージも普及していた。
経済性の面で優位と考えられたからだ。
同じ大英帝国の領土でも、南アフリカやニュージーランドなどでは、この1,067 mmの狭軌が敷かれている。
またマレー半島などではこの1,067 mmの狭軌よりさらに狭いメーターゲージと呼ばれる1,000mmの軌間を採用している地方もあった。
当時の日本の財政状況を考えると、建設コストが高い標準軌の採用は無理があった。
軌間が広いほど大きな列車を速く安定的に走らせることができるが、建設費がかさむ。
特に軌間が大きいほどカーブを大きく取る必要があり、山地の多い日本では標準軌は経費が掛かりすぎてしまう。
車両が大きければ、トンネル掘削費用も大きく変わってくる。
結果的に、狭軌の1,067 mmが日本の鉄道の標準となったものの、その後1,435 mm の標準軌へ軌間を変更しようとするいわゆる改軌論争が何度かあった。
しかし財政難を理由に、1,435 mm軌間への改軌が実現することはなかった。
その一方で都市部の路面電車などでは、1,435 mm軌間を採用する民間会社も現れた。
日本で最初に1,435 mm軌間を採用した民間鉄道は、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄大師線)である。
これは将来を見据えた取り組みとも言えるもので、一説によると国鉄が1,435 mm軌間へ改軌するであろうと見越してのこととも言われている。
結局は国鉄の改軌が行われなかったが、路面電車や電気鉄道、地下鉄では1,435mm軌間が普及した。
こうして、日本の鉄道は、主に1,067mmの狭軌と民間鉄道の一部で採用された1,435mmの標準軌との2軌間が併存することになる。

軌間 その2 弾丸列車計画と新幹線
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