ネクタイ เน็คไท

毎日身に着けるファッションアイテムのひとつで、欠かすことのできないのが「ネクタイ」です。
スーツにネクタイは、現代のサラリーマンにとっての定番の「制服」とも言えます。

ネクタイの起源については数々の諸説があります。
古代ローマ時代、兵士たちは「フォーカル」と呼ばれる、防寒とお守り、2つの役割を持った布を首に巻いて戦地へ向かったという説があります。
男たちの出征に際し、妻や恋人たちは、無事を願って布を贈ったのでした。
また、装飾品としてのネクタイについては、フランスのルイ13世の説が有名です。
17世紀ごろ、クロアチアからルイ13世の護衛のためにフランスに来ていた兵士が首に巻いていたものが現在のネクタイの起源とされています。
その当時はクラバットと呼ばれており、ネクタイというよりもスカーフに近いものでした。
ルイ13世がクラバットを取り入れたことで、宮廷人や富裕層の間で流行し、様々なスタイルのクラバットが生み出され、ヨーロッパ各地に広まっていきました。

日本では明治に入り、文明開化が進むにつれて、着物などの和服から洋服へと、服装も大きく変わっていきました。
政府の要人、軍人などは制服として洋服を着るようになっていきます。
ネクタイもそのころに着用されるようになります。
国産のネクタイでは、1884年(明治17年)に東京の小山梅吉という帽子商が、帽子の布を使って作った蝶ネクタイが、国産のネクタイ第1号だと言われています。
大正時代に入ると、現在の一般的なネクタイである、細長いタイプのものが普及し始めます。
時代は昭和に移り、ネクタイはスーツとともにサラリーマンの必需品ともいえる存在になりました。
しかし、近年になり、そのネクタイに“冬の時代”が到来しました。
「クールビズ」です。

環境省の呼びかけで始まったクールビズは、冷房によるエネルギーの使用量を抑えるため、室温を、28度を目安に設定し、その中でも快適に過ごすことができるよう、ネクタイや上着をなるべく着用しない軽装の服装を推奨したのです。
省エネルギー対策の一環として、真夏を中心に、1年の半分近くはネクタイをしない「ノーネクタイ」が定着することになります。
ネクタイは敬遠され、売れ行きは一気に落ち込んでしまいます。
廃業に追い込まれた老舗のネクタイメーカーもありました。
環境保護のためのキャンペーンですから、これ自体に異を唱えるつもりは、毛頭ありません。
しかし、僕が思うに、ネクタイを外したからと言って、それほどまでに体感温度が下がるのか、正直なところよくわかりません。
外から職場に入ってすぐは、確かに暑く感じます。
とはいえ、一応冷房が効いている室内なのです。
うちわで数分扇いでいるうちに、暑さは引いていくものです。
むしろ、胸元を開けた服装が、どうしても「しどけなく」感じてしまうので、僕自身はたとえ真夏であってもネクタイを外したくないのです。

常夏のタイでは、ネクタイを締めている人は少数派です。
一年の大半が、蒸し暑い気候なのですから、それは当然と言えるのかもしれません。
しかし、正装はやはりスーツにネクタイです。
バンコクの街中で、半袖のTシャツに短パン、ビーチサンダルで歩いているのは、きまって外国人観光客です。
現地の人々は、都会の街中では、そのような恰好を好みません。
暑い国だからこそ、折り目のきちんとついたワイシャツにネクタイを締めているサラリーマンが、信頼されるのです。
先代の国王陛下が崩御されて国民が喪に服しているときに、王宮を訪れたことがあります。
献花に訪れたのでしょうか。
タイでは喪服を着る文化はないと言われていますが、ここには黒の礼服に黒のネクタイを締めた人々の姿が確かにありました。
特別な事情とはいえ、この暑さのなかで、こうした正装をするのは、大変なことと察します。

この写真は、フワランポーン駅 (สถานีรถไฟกรุงเทพ)のコンコースで撮影したものです。
仕事帰りにそのまま空港近くの宿に泊まり、翌朝早くにバンコクに向かったときのことでした。
こんな服装の観光客はほぼいないことと思いますが、僕にとっては、なんら違和感のない日常なのです。
久しぶりに降り立つ「天使の都」。
しどけない恰好は似つかわしくありません。
いつしか入国審査のときは、ネクタイを締めた「正装」をするのが習慣になりました。



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2022年を振り返ってみると…

大晦日になりました。

あわただしく仕事に追われている人も、やっと年末年始の休みに入れたことと思います。

おつかれさまでした。

 

さて今年2022年を振り返ってみます。

3年前に始まったコロナ禍は、依然猛威を振るっているように感じます。

今年に入ってからは、移動の制限が少しずつ緩和され、秋以降からは、海外の渡航も一部再開されるようになりました。

僕の職場でも、出張の機会が大幅に増えました。

また、全国旅行支援と銘打った旅行代金の割引と地域クーポンを付与する新しい観光需要喚起政策も始まりました。

 

タイの入国制限については、大幅に制限が緩和され、観光目的での入国も可能になりました。

7月以降は、タイランドパスの申請と保険加入義務が廃止され、さらに10月以降の入国はワクチンの接種証明や陰性証明も不要になりました。

有効なパスポートさえあれば、基本的に制限なく入国することが可能になったのです。

待ちに待った自由化ではありますが、その後新規感染者数は、またまた増加して、「第8波」と言われる事態になっています。

年末に近づき、都内では連日2万人を超える新規感染者が出るなど、まだまだ安心できる状況ではありません。

減便を余儀なくされていた航空便も、再開し始めました。

日本とタイを結ぶ航空路線も、LCCを含め少しずつですが、再開し始めました。

とはいえ、航空賃はまだまだ高値水準です。

福岡空港では、保安検査に従事する職員数が足りず、搭乗を待つ人々の長い行列ができているというニュースも聞こえてきました。

空港の保安検査場に長蛇の列 なぜ? 年末年始の移動にも影響?https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221227/k10013935691000.html

コロナ禍で旅行者が激減したために、やむなく職場を去っていった人々が多数いて、規制緩和で旅行需要が戻ってきても、すぐに元の人員を確保することができず、たくさんの利用者に対応できないのです。

福岡空港には、羽田空港や伊丹空港、関西国際空港などにあるスマートレーン(複数の利用者が同時に検査を受けることのできる自動化レーン)が整備されていないこともあり、混雑の解消は困難な状況です。

規制緩和により旅行者は戻ってきていますが、混乱はしばらく続きそうです。

とはいえ、ようやく明るい兆しが見え始めたのは事実でしょう。

来年こそは、本格的に旅行者が戻ってくることになるでしょう。

長く続いたコロナ禍で大打撃を受けた観光業界が立ち直るのには、まだ時間がかかることと思われます。

 

クラビやサムイ島で過ごした日々がいまでも思い出されます。

あの美しい海は、いまどうなっているのか…

観光業界の人々が受けた深い傷は、簡単には癒されないと思われます。

いち早く彼らに笑顔が戻ってくる日を心から願っています。

今年の個人的な最も大きな変化は、猫と共に生活するようになったこと

 

美しい海を守るために…マイクロプラスチックの被害について

昔から海が好きで、これまでも沖縄やセブ島など、美しい海を見てきました。

熱帯魚を呼び寄せる方法(https://ponce07.com/tropical-fish/

これまでに見た海で、一番きれいで、一番好きな海は、タイのクラビ県のロック島です。
このブログのトップページに使っている写真は、そのロック島で撮影したものです。

こういうきれいな海を目にすると、本当に心が洗われるような気がします。
この風景がいつまでも続いてほしい、いつまでもきれいな海であってほしいと願うのは当然のことです。
しかしながら、世界の多くの海岸は、漂着する大量のごみの「被害」に遭っています。
海岸漂着ごみは、景観を損なうだけでなく、漁業へ悪い影響を及ぼし、さらには海の生態系をも破壊してしまう怖い存在です。
また、時として国境を超える厄介な問題でもあります。
僕の住んでいる長崎県では、海岸漂着ごみの多くは、外国からの漂着物といわれています。
対策は、グローバルな視点で考えていかなければいけないことになります。

海岸漂着ごみのなかでもとりわけ深刻な問題は、マイクロプラスチックと呼ばれている粒子の細かいプラスチックの存在です。
マイクロプラスチックとは、プラスチック製品が砕けて粉々になったものや、洗顔料や歯磨き粉、化粧品などに含まれているスクラブ剤などマイクロプラスチックビーズと呼ばれているものです。
マイクロプラスチックは、海の中で溶けることなく存在し続けるため、海洋生物の生態に大きな影響をもたらします。

魚や海鳥、海洋哺乳類などの海洋生物が、海水に混ざったマイクロプラスチックを吸い込んでしまいます。
マイクロプラスチックは消化できないため、消化不全や胃潰瘍などを引き起こし、海洋生物の命を奪う結果になってしまうのです。

さらには、サンゴが吸引してしまうことで、サンゴ礁の死滅(白化現象)が起きていることもわかってきました。

プラスチックは、安価で製品に加工しやすいなどの利点があるので、これまで世界中で様々な製品に使われています。
レジ袋やペットボトル、商品のパッケージなど、使い捨てにされるプラスチックもたくさんあります。
洗顔料や歯磨き粉、化粧品などに含まれているスクラブ剤にもプラスチックは使われていました。
粒子の細かいプラスチックなので、下水処理の過程で除去されることなく、そのまま海中に流入してしまうのです。
そうしたプラスチックごみが、河川に入り、やがて海に流れ出てしまいます。
海に流れ出たプラスチックのごみは、潮の流れや風の力によって海中に浮遊して遠くまで運ばれたり、海底に沈んだりして、長く海中に漂うことになります。



このような、マイクロプラスチックによる被害の防ぐためには、早急な対策が必要です。

マイクロプラスチックの弊害が知られるようになってから間もなく、欧米諸国などはスクラブ剤(角質除去や清浄を行うもの)について、その製造を規制するようになりました。

日本国内では、企業努力によって対策は進み、マイクロプラスチックビーズの多くは、すでに分解可能なプラスチックや生物由来の原料に代わってきています。
僕が普段使っている洗顔料のメーカーのホームページを見たところ、このメーカーはすでにすべての製品に代替原料を使用しており、マイクロプラスチックビーズを使用していないとのことでした。
また、環境省が2020年に行った調査によると、日本国内の主要なメーカーの製品のサンプリング調査を行った結果、洗い流し製品においてスクラブ剤としてマイクロプラスチックビーズを使用しているものは確認されなかった、と発表しています。
https://www.env.go.jp/press/109544.html

マイクロプラスチックの被害を抑えるために、私たちにできることはなんでしょうか。
まずは、プラスチックの使用を抑えることが求められます。

もし、スクラブ剤としてマイクロプラスチックビーズを使用しているものがあれば、すぐに使用をやめることは当然です。

また、マイバッグを持参し、レジ袋はもらわないこと。

マイボトルを持ち歩き、プラスチックのカップを減らすといったことは、身近なところから始められるエコアクションと言えます。

日本は、一人当たりのプラスチック容器包装の廃棄量が世界で2番目に多い国と言われています。
私たち一人ひとりが毎日の暮らしの中で、プラスチックごみを減らす取組をしていくことが重要です。

それに加えて大切なことは、プラスチックごみを適切に処理することに留意しなければなりません。

海や川など屋外のレジャーで出たごみは、持ち帰って処理するようにしなければなりません。

使用後の使い捨てコンタクトレンズは、排水管に流すようなことはしてはならないのです。

 

美しい海を保全して、次の世代に末永く引き継いでいくことは、現在の私たちに課せられた大切な責務なのです。

 

身近になったアジアンテイストの背景に

タイ政府は22日、新型コロナウイルスワクチンの接種を完了した渡航者について、5月1日から入国時のPCR検査を不要とする方針を決めました。
これにより、入国の規制はほぼなくなりました。
再び、気軽に旅行できる日が近づいてきました。
これまで何度も、規制緩和と規制強化が繰り返されてきましたが、ようやくタイへの渡航とについて、現実味が出てきました。
今度こそは、自由に旅行ができると希望を持ったかたも多いのではないでしょうか。

以前のコラムで、タイ料理の中で、一番好きなものは「ジャスミンライス」と書きました。(ジャスミンライスข้าวหอมมะลิ  https://ponce07.com/khao-hom-mari/)

最近は、アジアの食材が多く輸入されて、近所のスーパーでも頻繁に東南アジアの食材を目にするようになりました。
ナンプラー(魚醤)やカレーペースト、インスタントラーメンなどは、以前からよく見かけてはいましたが、最近では、ジャスミンライスもよく目にするようになりました。
これまで関税障壁の高かった「コメ」であるジャスミンライスも、多く取り扱われるようになったのです。
輸入食材が安価に買えることで有名な「業務スーパー」でも、ジャスミンライスの取り扱いが始まりました。
しかし…
ちょっと高いです。
ちょっとというより、かなり高いと言ってもいいかもしれません。
内容量は1kgで753円(税込、税抜698円)です。
最高品質のジャスミンライスを、気軽にお試しできるはありがたいことですが、これはちょっと高いですね。
現地の価格を知っている者としては。
やはりその背景には、多額の関税が課せられている事情があるからなのでしょう。
財務省の実行関税率表に記載されているコメの関税は、1kg当たり341円とのこと。
ざっくり言ってみれば、およそ半分が税金のようなものです。

タイの米は需要がないとか、日本米こそが一番などと言う人が結構います。
しかし、僕が感じるのはタイ米というものが、あまり理解されていないのではないかということです。
もちろん、僕自身が毎日日本米を口にしていて、その日本米をうまいと感じているところですが、タイ米がうまくないとは決して思いません。
肉にも牛肉や豚肉、鶏肉があるのと同じように、コメにも料理に合った種類のコメがあるのです。
和食には日本米が合いますが、タイカレーやガパオライスなどのタイ料理にあうのは、やはりタイ米なのです。
以前も書いたことではありますが、タイ米は日本の米と違って、粘り気が少なく、水分を吸収しづらいため、カレーなどのような汁物との相性が良いのです。
同じコメであっても、それぞれ別の食べ方があるのです。

もちろん価格面だけをとらえれば、タイ米は日本米の2分の1から3分の1程度なので、ある一定の関税が課されるのは仕方のないことでしょう。
しかし、タイ米と日本米では、その持ち味や用途が異なるので、単純に比較することはできないと思います。
現在の日本では、多くの外国人が定住していることもあって、世界各国の美味しい食材を購入することが可能になっています。
試してみたいと思う人も少なくありません。
こうしたなか、高すぎる関税は消費者の選択の幅を狭めてしまうことになるでしょう。

関税について話題が出たついでに、このことについてもぜひ触れておきます。
高いのはコメだけではありません。
僕が愛してやまないもの。
それはビールです。
タイのブランドビールである「シンハ เบียร์สิงห์ BEER SINGHA」も、スーパーの酒類コーナーで見かけますが、ご覧のとおりその高さに驚きです。
これでは、気軽に手に取るわけにはいきませんね。
これこそ不当な関税障壁と感じるのは僕だけではないでしょう。
いつの日か、タイの地を再び訪れるときが来たら、シンハビールの味を、存分に堪能したいと思います。

 

 


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政府が対処すべき最大の問題は何ですか? ปัญหาใหญ่ที่สุดที่รัฐบาลต้องรับมือคือปัญหาอะไร

ในปัจจุบันญี่ปุ่นมีหนี้สินจำนวนมหาศาล ซึ่งมีมากกว่า 150% ของผลิตภัณฑ์มวลรวมในประเทศ(GDP) ประชากรญี่ปุ่นที่สูงวัยมีจำนวนเพิ่มขึ้นอย่างต่อเนื่อง สัดส่วนของประชากรสูงวัยในญี่ปุ่น (อายุ 65 ปีขึ้นไป)มีมากที่สุดในบรรดาประเทศผู้นำทางด้านอุตสาหกรรม แต่ในอีกด้านหนึ่งอัตราการเกิดกลับมีต่ำที่สุด อย่างไรก็ตาม ในการที่จะดูแลกลุ่มผู้สูงอายุเหล่านี้จำเป็นต้องใช้เงินจำนวนมาก แต่ทว่ากลุ่มคนวัยรุ่นกลับมีจำนวนไม่เพียงพอต่อการจ่ายเงินในระบบเงินบำนาญในปัจจุบัน ขณะที่รัฐบาลพยายามจะขึ้นภาษีในอนาคตอันใกล้ แต่กลับมีบางคนกังวลว่าการขึ้นภาษีจะยิ่งทำให้เศรษฐกิจย่ำแย่ลง ในปัจจุบันอาจยังไม่สามารถพูดได้เต็มปากว่าเศรษฐกิจญี่ปุ่นอยู่ในสภาพที่ดี แต่หากไม่เร่งดำเนินมาตรการอย่างใดอย่างหนึ่งโดยเร็วแล้ว ประเทศนี้คงจะถดถอยลงไปอีก

現在日本は巨額の借金を抱えており、その額は国内総生産の150パーセント以上です。日本の人口は高齢化が進んでいます。日本の高齢人口(65歳以上)の割合は先進工業国のなかでも最大、そのいっぽう出生率は最低です。こうした高齢の人々の世話をするには、さらに多くのお金が必要になります。しかし現在の年金制度を支えるには若い人たちが足りません。政府は近い将来に増税をしようとしていますが、増税は経済をさらに悪化させると心配する人もいます。現状では日本経済はまだ好調とは言えず、すぐになんらかの対策を実施しなければ、この国は弱体化してしまうでしょう。

出典:日タイ対訳ニッポン紹介FAQ
作者:Davit A. Thayneデイビット・セイン
タイ語訳:ปิยะนุช วิริเยนะวัตร์
出版:IBCパブリッシング

急速な少子高齢化がもたらす影響は計り知れません。
デイビット・セインさんも、日本のこうした現状について、危機感を示していますが、まったく同感です。
年金制度を例にとって考えてみます。
年金制度というものは、支える側の負担と支えられる側の給付が均衡しているということ、つまり「現役世代の拠出=引退世代の給付」で成り立っているのが基本です。
しかしそれでは給付額がとても足りません。
「支える側」と「支えられる側」の数が圧倒的に違うからにほかなりません。
「現役世代の拠出+公費(税金)=引退世代の給付」とすることで、かろうじて均衡を保っているのです。
「支える側」である勤労者世代を増やそうにも、少子化のため労働者の増加は見込めません。
業種によって偏りはあるものの、現在の日本は労働者が不足しています。
日本の失業率は、OECD主要国の中では最も低水準にあります。
労働の省力化の技術が進んできているとはいえ、社会を支えていく活力を維持していくためには、やはり若者の力が必要なのです。
これからの日本は、さらに少子高齢化が進み、「支える側」の人口が減り、「支えられる側」の人口が増大し、その格差がますます広がっていきます。
若者たちの負担増は避けられません。

また税収を上げるには、国際な競争に勝つ方策が必要になります。
そのためにはこれからの発展を支えていく多くの若者たちが、日本で安心して活躍していけるような社会にしていく必要があります。
日本では外国からの移民の受け入れには反対意見が多いようです。
こうしたなか、2018年に出入国管理及び難民認定法が改正され、外国人の在留資格に「特定技能」が創設されて、一定の技能を持った外国人を受け入れることが制度化されました(施行は2019年4月)。
特定技能は介護、ビルクリーニング、素形材産業、産業機械製造業、電気・電子情報関連産業、建設業、造船・舶用業、自動車整備業、航空業、宿泊業、農業、漁業、飲食料品製造業、外食業の14業種になります。
この分野は慢性的に人手不足であり、専門性を持った即戦力となる外国人を必要としていたのです。
さらに建設業、造船・舶用業の2分野は、条件付きで期間の制限なく日本に滞在できるほか、家族の帯同も可能になりました(特定技能2号)。

日本国内では、急速に進む少子高齢化社会に悲観的な意見が多いのは事実です。
しかしその一方で、日本の高いサービス水準や技術水準に魅力を感じる外国人は少なくありません。
世界的に有名な日本製品のブランドも多く、これらに魅了される人も多いようです。
こうした高い技術を学びたいと考え、日本での就職を希望し、日本語を学んでいる若者も少なくありません。
給料が比較的に高く、福利厚生も充実しているという理由で日本企業に就職したいと考える学生もいます。
これからは、やる気を持った多くの若い外国人を、さらに受け入れていくことが求められると私は考えます。

 


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タイの医療保険制度とその現状について

急なことだが、入院することになってしまった。

ある異常が発覚して、急遽手術を受けなければならなくなってしまった。

仕事ばかりの毎日だったが、急に白い無機的な風景の病室に入れられてしまった。

この原稿は、入院中のベッドの上で書いている。

こういう病室に入って想い出すのは、やはりあの時のことだ。

タイを旅行中に、同行していた自分の父親が危篤状態になったときのことである。

クラビー市内のホテルで親父が倒れたのは、ちょうどいまから6年前の正月元旦のことだった。

この件については、以前このブログでも書いたとおりだ。

(白い道 https://ponce07.com/shiroimichi-prologue/

あとになって知ったことだが、クラビー県には大病院がない。

大きいか小さいかの判断は難しいところではあるが、少なくとも、高水準の総合病院というものはない。

日本語が通じる病院もない。

その日泊っていたホテルのマスターが、街で一番大きいと思われる病院に運んでくれた。

それが、クラビナカリン国際病院(Krabi Nakharin International Hospital)だった。

クラビナカリン国際病院(Krabi Nakharin International Hospital)GoogleMapより

 

父の病状は心臓の手術が必要な重篤な状態だった。

ペースメーカーの埋め込みが必要なほどの状態だった。

クラビーのその病院では対応ができなかった。

そのため、クラビータウンから150キロ以上離れたプーケットに転院し、そこで手術を受けることになったのである。

別の県の公立病院に転院する選択肢もあるにはあったのだが、重篤な状況だったことから、待ち時間の短い私立の病院でないと危険だとの判断があったのだ。

素早く、そして的確な判断をしたクラビーの病院の医師には大変感謝している。

プーケットの病院は、私立の大病院で、難易度の高い手術に迅速に対応していただいた。

そのおかげで、親父は無事に帰国できたことはもちろん、手術後6年が経過したいまでも、何ら支障なく生活を送ることができている。

つくづく幸運だったと改めて思う。

タイの医療水準は非常に高く、日本と同等か、あるいはそれ以上だと思う。

先日、ニュースで知ったことだが、タイ政府は「医療ビザ(Medical Treatment Visa)という新たなビザを新設するという。

政府はメディカルツーリズムをこれからの重要産業としてとらえていて、今回のビザの新設で、リハビリやアンチエイジング、美容整形などの医療サービスを受ける外国人富裕者層をターゲットとした新たな需要の掘り起こしを狙ったものと考えられる。

そのような、ハイレベルな医療サービスを提供できるのは一部の私立病院に限定されている。

 

タイには、日本の社会保険のような民間のサラリーマンの職域保険や共済保険のような公務員の職域保険もあるが、自営業者や農民などサラリーマン以外の者が加入できる、日本の国民健康保険に相当するような公的保険制度は長く存在していなかった。

こういったサラリーマン以外の者は、民間の医療保険に加入するしかなく、低所得者層の多くは、無保険状態のままに置かれていた。

しかし2002年に、国民皆保険を目指した新たな公的な保険制度ができた。

「30バーツ保険」とも呼ばれるこの新たな保険制度によると、患者は予め登録した医療機関で治療を受けることができ、受診や投薬にかかる自己負担は一回につき30バーツまでと定められているという(この公的保険に加入できるのはタイ国籍を持っている者に限られている)。

この制度は、一見すると画期的な制度かもしれない。

この制度によって、多くのタイ国民が医療機関を受診できる機会が増えたのは事実である。

ところが、現実はプラスの側面ばかりではない。

まず、患者の登録する医療機関のほとんどが公立病院である。

そのため、公立病院は常に混雑して、患者は長時間待たされることになる。

急を要する治療でも数週間以上待たされることもあるという。

これでは緊急を要する治療には使えないことになってしまう。

低所得者層であれば、受診の都度支払う自己負担の上限額である30バーツに負担感を持つ者もいるだろう。

しかし現在の医療事情を考慮すれば、一回あたり30バーツ程度では、高度な治療はほとんどできないのではないか。

高度な治療を多用すれば、保険財政はたちまちひっ迫してしまう。

そのため、低所得者層は、公立病院で消極的な治療のみを受ける結果となってしまう。

 

私立の病院であれば、ハイレベルの治療を受けることは可能だ。

しかし、それなりの対価を要求される。当然だろう。

受診に際しては、十分な医療費をカバーできる民間の保険に加入しているかが問題にされる。

保険加入がないのであれば、直ちに保証金の支払いを求められる。

このあたりの事情は、自分で経験したことなのでよくわかる。

親父の入院と手術のときは、クレジットカードで保証金を支払ったので問題はなかったが、支払能力に欠けるとわかれば、すぐに追い出されていただろう。

タイでは高い医療水準がありながらも、公的保険では十分な治療が受けられない。

救急車を呼ぶのも、基本的に有料である。

誰も彼もが、等しくハイレベルの治療を受けることができるわけではない。

そう考えると、タイの社会は日本とは比較にならないほどの格差社会と言うことができるだろう。

 

タイの公的保険は未だ課題が多いと言えるが、より多くの国民の健康のために、充実した制度になってほしいと切に願う。

新型コロナウイルスの再度の蔓延で、タイ旅行への道が、またしても閉ざされてしまった。

本来であれば、その時にお世話になったあのクラビーの病院を訪れて、お礼の気持ちを伝えたいと思っているが、いまはそれができる状況にはない。

いつの日か、以前のようにタイを訪れることのできる日が来たら、その時はクラビーの地をまずは訪れたいと考えている。

 

 


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アーミー・メソッドとドナルド・キーン  その2

青年は、自分を取り巻く世界の嫌なものすべてから逃れるために、日本という美の国の『源氏物語』の世界に没頭していた。

ニューヨーク市で生まれた彼は、成績優秀により「飛び級」を繰り返し、16歳でニューヨークのコロンビア大学文学部に入学していた。

しかし、明るい将来が見えていたかと言えば、決してそうではなかった。

恐れていた現実が近づいている。

世界は戦争に傾いていたのだ。

たまたま書店で手にした英訳の『源氏物語』に心を奪われた。

暗く将来が見えない不安と恐怖心。

『源氏物語』の世界と自分のいる世界を比べていた。

そこには戦争がなかった。

受講していた「日本思想史」の角田柳作先生が、敵国外国人の嫌疑をかけられ、拘束されたこともあった。

からっぽの教室を見て、自分の学生生活が終わろうとしているのを実感した。

銃剣を持って突撃する自分の姿は想像できなかった。

海軍の語学学校で翻訳と通訳の候補生を養成していることを知り、入学を志願した。

 

海軍語学学校での授業が始まった。

授業は週六日、一日四時間で、毎週土曜日に試験があった。

二時間が読解、一時間が会話、一時間が書き取りだった。

さらに翌日の授業に備えて少なくとも四時間は予習が必要だった。

講師は主に日系人が担当していた。

アメリカで生まれ、日本で教育を受け、アメリカに戻ってきた日系アメリカ人たちだった。

彼らは熱意をもって自分の仕事に打ち込んでいた。

彼らは学生たちの日本語の上達を喜んだ。

講師と学生たちとの間に、強いきずなが生まれるのに長い時間はかからなかった。

11か月のプログラムが終了した。

そのとき彼は、印刷された日本語だけでなく、草書も読むことが出来ていた。

手紙や報告書などを日本語で記すことも可能になっていた。

彼は卒業生総代として「告別の辞」を述べていた。

一年前までは一言も話せなかった日本語でである。

 

海軍の語学学校を卒業した彼の最初の赴任地は、真珠湾であった。

そこでの任務は、押収された日本語の文書を翻訳する作業であった。

文書はガダルカナル島で採集されたものだった。

翻訳は、日本軍の残した日課の報告書のようなものが多く、作業は退屈なものだった。

そんななかで目を引いたもの、それは「日記」だった。

多くは、日本兵の死体から抜き取られたものであった。

血痕が付着していて、不快な異臭がした。

しかし、これらの日記は、時に堪えられないほど感動的で、一兵士の最後の日々の苦悩が記録されていた。

はじめは愛国的な常套句で埋められたページも、戦場で自分の最期が近づいているのを感じるにつれ、偽りを書くことはなくなり、「本当の思い」が綴られる。

なかには最後に英文で伝言が記してあるものもあった。

伝言は日記を発見したアメリカ人に宛てたもので、「戦争が終わったらこの日記を家族に届けてほしい」と書かれていた。

日本の地を踏んだことのない彼が、本当の意味で知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだった。

出会ったその時には、すでに死んでいた人たちではあったが。

のちに日本文学史における日記文学の独自性と豊かさを探求した名著である『百代の過客』が書かれることになるが、その原点となったのは、このときの日記の翻訳体験に他ならなかったのである。

 

1945年4月1日、沖縄に上陸する。

洞窟に隠れた民間人が多かった。

彼は洞窟を片端から歩き回り、中に誰か隠れていないか呼びかけた。

日本兵のなかには自爆する者もいた。

民間人が自殺する姿を目の当たりにしたこともあった。

 

多くの日本人捕虜の中に、記憶に残る若い将校がいた。

学徒兵だった。

この若い海軍将校は、敵としてではなく、同じ学徒兵として話がしたいという。

この海軍将校が彼に尋ねる。

このまま自分が生き続けなければならない理由が何かあるだろうかと。

彼は自信を持って答えた。

生きて、新しい日本のために働くように、と。

 

沖縄での軍務は7月まで続く。

終戦の玉音放送はグアムの収容所で日本人捕虜とともに聞いた。

アメリカ海軍の通訳として日本と対峙していた彼の「戦争」が終った。

戦争がきっかけではあったが、日本語という大きな宝物を得た。

この知識を棄てたくないという思いから、彼はコロンビア大学へ戻る。

日本文学の研究を続け、その後念願かない京都に留学することになる。

川端康成や三島由紀夫など日本を代表する作家との交遊を通じて、文学研究を豊かにした。

数多くの日本の作家の翻訳を手掛けたほか、「源氏物語」や「奥の細道」など日本の古典文学を海外に紹介してきた。

その後、コロンビア大学で教鞭を取る傍ら、日米を行き来していたが、東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得した。

被災した人々の忍耐強さを目の当たりにしたのがその理由だという。

 

彼はすでに多くの業績を生み出していた。

外国人の学術研究者として史上初めての文化勲章を受章した。

かつての沖縄戦で日本人の投降を呼びかけていた青年。

その後、日本文学の世界に身を投じ、日本人以上にその研究に没頭し、優れた業績を遺した。

多くの人々に愛された彼が、2019年2月に96年間の生涯を閉じたのは、終の棲家として永住を決めた日本の東京であった。

 

 

参考文献

ドナルド・キーン自伝(中公文庫) ドナルド・キーン著 角地幸男訳

日本語教育能力検定試験 完全攻略ガイド(‎翔泳社)

 

 

アーミー・メソッドとドナルド・キーン  その1

「外国語を学び始めたきっかけは」と聞かれれば、「その国が好きだから」とか「その国でもっと自由に旅行したいから」と答えるかもしれない。

学生のなかには、「学校の勉強や入学試験のために仕方なくさせられているから」という答えもあるかもしれない。

しかし勉強を続けるうちに、「仕方ないから勉強する」といった外発的な動機づけから、学習者の内側からくる動機づけに変化していくこともある。

自発的に沸き起こる知的好奇心から、「面白いから勉強する」「外国の人と友達になりたいから勉強する」という内発的な動機づけへの変化である。

それは平和で自由な社会だからこそ可能なのかもしれない。

もし、学び始めたそのときに「戦争」があったとしたら…

 

近世になり産業革命が興り、大量生産が行われるようになり、経済活動が盛んになる。

経済活動が活発になれば、貿易などを通じて人々の国境を越えた行き来が増え、外国語の必要性が高まる。

こうした背景から、19世紀から20世紀にかけてさまざまな外国語教授法が盛んに研究されるようになった。

古典的な「文法訳読法(Grammar Translation Method)」のような、母国語への翻訳を中心にした教授法から脱却し、「ナチュラル・メソッド(Natural Method自然主義教授法)」や「オーラルメソッド(Oral Method)」といった、直接法による教授法、とりわけ聴解力重視した「話せる外国語」の教授法が開発されたのがこの頃である。

そんな中で、最も成果の上がった学習法として知られているのが、アーミー・メソッド(ASTP(Army Specialized Training Program))であった。

戦争遂行のために、諜報活動が必要になる。

そのために兵士に、敵国の言語を習得させなければならない。

それも、短時間で実践的なレベルまで習得させなければならなかった。

そこで行動主義心理学に基づいた教授法が開発されたのである。

行動主義心理学に基づいた教授法とは、外部からの刺激に反応し、それが習慣化すること、つまり教師が刺激を与え、学習者は条件反射的に学習させられるという教授法であった。

かの有名な「パブロフの犬」の理論のごとく、反射的に外国語が発声できるような、ある種人間性を否定させられるような、過激な学習方法でもあった。

 

まったく余計な話ではあるが、日本では同じ時期に、英語は「敵性語」として扱われ、一切の英語教育が排除されていた。

一方のアメリカでは敵国の言語を積極的に教育し、戦略的に活用しようとしていたのである。

この違いは、「言霊」の思想に強く裏付けられた日本人と、そうではないアメリカ人の差なのかもしれない。

アーミー・メソッドプログラムによる授業は、アメリカ人教官とネイティブスピーカーの教官の分業で行われた。

アメリカ人の教官が、読解、翻訳など言語の構造について母語で教え、また、インフォーマントと呼ばれるネイティブスピーカーの教官行う口頭練習からなる授業であった。

インフォーマントは、モデルとしての発話を示す者のことで、日系人が務めた。

モデルが提示された後、ドリルマスターによる口頭での反復練習を行う。

ネイティブによる口頭練習により多くの時間が割かれ、徹底した暗記と反復練習が行われていた。

行動主義心理学に基づく習慣形成という考えが背景にあったため、ネイティブの言語に触れて、とにかくそれを模倣、暗記することで言語が習得されると考えられていたからであった。

口頭練習を指揮するドリルマスターによる集中的な口頭練習は、「練習」というよりも、「訓練」であったのである。

そして、自動的に話せるようになるまで基本文を徹底的に暗記させられていたのであった。

 

このアーミー・メソッドは、短時間のうちに流暢な話者を養成できたメリットはあるものの、反復練習は単調なものになりがちであるうえ、学習者に過度の緊張をもたらしたのも事実であった。

アーミー・メソッドによって日本語を学んだ学生の中に、その青年がいた。

のちに、日本文学研究者となったドナルド・キーン(Donald Keene)である。

 

アーミー・メソッドとドナルド・キーン その2

https://ponce07.com/astp-donald-keene-2

 

 

観光の再開について

タイの観光地であるプーケット県は7月1日、隔離期間なしでの観光客の受け入れを再開した。

タイ政府は新型コロナウイルスによって壊滅的な打撃を受けた観光業の復活を期待し、ワクチン接種済みの旅行者に限り、隔離期間なしで入国を許可する制度、いわゆるプーケット・サンドボックスと呼ばれる制度を導入した。

条件付きではあるが、隔離措置なしでの観光客の受け入れを再開したのである。

外国人観光客は到着時に専用のスマートフォンのアプリのインストールを求められ、その動きは政府機関の管理センターに追跡される。

また観光客が宿泊できるホテルは、政府の安全基準を満たした施設のみとなる。

しかしこうした制度がある一方、変異株の感染拡大で、タイ国内の新規感染者は引き続き発生しており、首都バンコクと近郊には感染対策の制限が課されている。

6月30日には、1日当たりの死者は、53人と過去最多となった。

懸念材料の多い中、政府は予定通りプーケット・サンドボックスを開始した。

プーケット県民の多くは観光の再開を待ち望んでいた。

タイを訪れる観光客は毎年約4000万人で、これが国内の経済を支えている

国内総生産(GDP)の約18%を観光業が占めるとも言われている。

国外からの観光客が消えたことは、経済的に大打撃と言える。

特にプーケットやスラータニーなど観光名所を多く持つ県での、被害は甚大だ。

新型コロナウイルス拡大の影響で、プーケットでは8割以上のホテルが休業しているという。

ここ1年ほどプーケットの白い砂浜は静けさの中にあったのである。

このプーケット・サンドボックスの導入のため、プーケット県民の3分の2は、ワクチンの接種を済ませたという。

日本での状況はどうかというと、東京では新規感染者が減る見込みは依然ない。

感染力が強いとされる変異株の拡大が大いに気になる。

またオリンピックの開催で外国からの人の流入が増加している点も気になるところである。

切り札とされるワクチンの接種は遅々として進んでいない。

タイ保健省が定める感染リスク評価で日本は「高リスク」に属している。

タイ人の目からは、日本は「危険」とみなされているのである。

プーケット・サンドボックスについても、タイ政府は日本からの渡航者はビジネス目的に限るとしている。

観光目的での入国は、ワクチン接種済みでも現時点では隔離検疫が必要な状況である。

こうしたニュースを見る限り、明るい兆しはまったく見えてこない。

感染の防止と経済の再生を両立させることは難しい。

感染拡大のためにあらゆる措置を講じていくことは必須である。

しかし、疲弊した経済を放置することもまた許されない。

健康でなければ経済活動もできないが、仮に経済が完全にストップしてしまえば、たとえ健康であっても、我々の生活は成り立たないのである。

このプーケット・サンドボックスは、今後スラータニー県のサムイ島、パンガン島、タオ島にも適用される見込みという。

経済再生のための政策は、今後も拡大されると思われる。

日本に住んでいる者にとって、海外への渡航など時期尚早な話に過ぎない。

我慢のときが続くのは仕方がない。

プーケットやスラータニー、クラビの海岸を懐かしく思う。

いつの日か、再び訪れることを夢見ている。

時間が困難を解決させてくれる。

こうした中で自分たちにできること。

それは個々人が感染防止に努め、ハイリスクな行動を慎むことなのである。


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今年一年を振り返ってみると…

年の瀬になりました。

あわただしく仕事に追われている人も多いと思います。

 

さて今年一年を振り返ってみると…

今年の年明けの日は、タイ南部スラータニー県(จังหวัดสุราษฎร์ธานี)のサムイ島(เกาะสมุย)にいました。

島の北東部にあるチャウエンビーチ(หาดเฉวง)という海浜で初日の出を見たのを覚えています。

美しい白浜で、今年一年の平穏無事を祈願したものでした。

ところがそれから間もなくして、事態は一変します。

新型コロナウイルスの世界的な拡大です。

このウイルスの蔓延がこれほどまでに続くとは、全く予想できませんでした。

外国への旅行は厳しく制限され、事実上の鎖国状態となってしまいます。

その後も感染の拡大は、衰えることはありませんでした。

12月になると、感染者数はこれまでにない勢いで増加し続けています。

東京でも、日々1000人に迫る勢いで新規感染者が発生しています。

僕の住んでいる街でも感染者が発生し、仕事の面でも混乱が見られました。

久しく新規感染者の出ていなかったタイでも、今月バンコク近郊のサムットサコン県(จังหวัดสมุทรสาคร)の海産物市場で、大規模な感染が発生しました。

経済活動や人の移動を規制したことが功を奏し、5月以降は市中での感染を抑え込んでいたタイで、突然に大規模な集団感染が発生したのです。

その感染者の大半はミャンマーからの出稼ぎ労働者だったということもあり、「感染の拡大を招いた原因は不法入国者」との非難の声も出てきて、外国人労働者が白眼視される事態にまでなってしまいました。

感染という事実がなければ、非難を受けることもなかっただろうと思うと、まったく残念で仕方ありません。

 

海外からの旅行が制限されたことで、多くの観光地では経済的に窮地に立たされています。

南部では観光業が主な産業という島も多いのですから、これは壊滅的な被害といっても過言ではありません。

まったく無念であり、胸が痛みます

 

クラビーやプーケットで過ごした日々がいまでも思い出されます。

美しい海、美味しい料理、気さくで人情味あふれる地元の人々たち…

タイへの旅行が再開できる日がいつになるのかまったく予想できません。

いつの日か自由に旅行できる日が戻ってきたら、クラビーやプーケットの街を歩いてみたいと切に願っています。

 


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