白い道 その11

治療内容の詳細な説明がなされる。
ここまでは日本のやり方と変わらない。
決定的に異なるのは「見積書」がついていること。
治療費の内容と金額が詳細に記されている。
当たり前だが、記載は基本的にタイ語になっている。
突出して高額なのはやはりペースメーカーの機器本体だ。
最新で最もハイクラスのものを使うとのこと。
これが全体費用の半数を超える。
他に高額なのが救急車と専門医の派遣費用だ。
救急車については既に済んでいるが、あれだけの距離を医師や看護師など同乗させて移動するのだから高くなるのも仕方ない。
専門医はバンコクからプーケットに呼び寄せている。
この種の手術の執刀ができる医師は、そう多くはいないのだろう。
それ以外の入院諸経費や投薬などの費用は安価だった。
とは言えこれだけの治療費を前金で負担するのは、誰でもできることではないだろう。
ここは私立病院なのだ。
もし支払いができないというのであれば、それは即ち「お引き取り願います」ということなのだろう。
厳しい現実だが、これが世界の常識なのかもしれない。
「了解であればすぐに署名を」
催促された。
ゆっくりと考えている余裕はない。
バンコクからこちらへ向かっている専門医はもうすぐ到着する。
今晩未明に手術が始まる。

白い道 その12
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白い道 その10

深夜の郊外の道を疾走する。
一般道を時速80キロ超えのスピードで走っている。
汗が流れるのがわかる。
着いたのは3時頃。
親父をのせた救急車はまだ到着していない。
早速事務員がやって来る。
いくつもの書類にサインを求められる。
基本的にタイ語になる。
それからすぐに請求が来る。
当然に前金(保証金)になる。
概ねの治療内容が伝わっているのだろう。
金額が大きかった。50万バーツだった。
その時のレートは1バーツ約3.45円。
それだけの額の現金を持ち歩いている人は稀だろう。
「クレジットカードは使えますか?」
「もちろんです」
ところがそのカードが通らない。
リーダーに何度通してもエラー音が出る。
原因はすぐにわかった。「枠の問題だ」
金額が大き過ぎて、カードの利用限度額をオーバーしているのだ。
普段からクレジットカードを使っているが、大抵は日用品や食品などをスーパーで買うような使いかたなので、利用限度額を意識することはなかった。
事務員に請求書を分割してもらう。
3枚に分けてやっと通すことができた。
親父を乗せた救急車は、僕らより1時間遅れで到着した。
すぐさま集中治療室に送り込まれた。
空が明るくなっていた。
一睡もしていなかった。

白い道 その11
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白い道 その9

救急車がクラビーの病院に着いたのは、深夜だった。
時計の針は午前0時に近づいていた。
病院のスタッフが、慌ただしく準備を始めた。
数々の機器類や酸素ボンベが運び込まれる。
看護師や医師のほかに、つなぎ服姿の救急隊員の姿も見えた。
いまからおよそ3時間の移動が始まる。
クラビー県からプーケット県への移動。
手術にあたる担当の専門医は、バンコクから来るという。
タイの地名を問われても、地理に詳しいわけではないので、位置関係がわかりにくかった。
しかし広範囲の移動であるとこは容易に想像できる。
日本で例えて言えば、五島列島のような離島に遊びに行って長崎に帰って来て、そこで突然発病。
佐賀の病院に行かず、福岡の病院に搬送される。
担当の専門医が東京から飛行機で駆けつける。
やや大袈裟だが、こんな感覚に近い。
事実、クラビーからプーケットまでの距離は150キロを越える。
またバンコクからプーケットまでは、空路で1時間20分かかる。
とにもかくにも、容体の安定しない親父をプーケットまで無事に移動させること。
このことだけを考えた。
途中で急変しないことをただ祈るのみだった。
救急車に同乗できない僕らは、別のクルマで移動する。
この時のクルマもやはりタクシーではなかった。
一般の乗用車だった。
病院の関係者から依頼されたのだろう。
実費相当の謝礼で運転を依頼した。

白い道 その10
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白い道 その8

長い待ち時間だった。
緊急治療室から出され、礼拝室で待つように告げられた。
英語でPrayer roomと表示されているこの部屋は、祈りのための場所である。
ムスリムが日に5回礼拝をするために用意された部屋でもある。
タイは仏教国だが、ムスリムも多くいる。
特に南部はイスラム色が強い。
病棟には仏教式とイスラム式の2つの礼拝室が用意されていた。
通されたのはイスラム式の礼拝室だった。
手足を洗って清めるための水道があるほかは、部屋のなかは整然としていた。
なるほど偶像崇拝を禁じるイスラム社会では、礼拝のための場はシンプルにできているのだ。
僕とおフクロの他には誰もいない。
待ち時間が長く感じられる。
転院先はプーケット県の私立病院に決まった。
タイでは治療費の安い公立の病院は、患者が多すぎて待たされることが多い。
富裕層はレベルが高くて対応の速い私立の病院を選ぶ。
医師は、急変を繰り返す親父の病状から、一刻も早い手術が必要と判断した。
スラートターニーの県立病院に転院したら、手術がいつになるのかわからない。
数日間待たされる可能性もある。
プーケットの私立病院であれば、翌日にも手術ができる。
「私立病院なので治療費は高くなってしまうが…」
医師からそう告げられたが、他の選択肢はない。
「プーケットでお願いします」
この医師の迅速な対応に感謝した。
時間がなかった。
今晩にもプーケットに移動するとことになった。

白い道 その9
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白い道 その7

クラビー県の私立病院。
緊急治療室で診療にあたったのは、やや年配の医師だった。
背後からはっきりと聞こえた。
「オトウサン、心臓危ないね」
日本語だった。
その医師は若い頃に東京に留学した経験があると言った。
専門は心臓外科だという。
渡りに舟とはこのことか。
幸運に感謝するのみだった。
病状は不安定だった。
心臓は停止と蘇生を繰り返した。
全身から延びる電気コードはモニターに繋がっている
モニターに映し出されるパルスは、止まったり動いたりを繰り返す。
全身の色も目まぐるしく変化する。
鬱血したり蒼白になったりを繰り返した。
うわ言を言っているが、何を言っているのかよく聞き取れない。
「心臓の動くチカラ弱い」 
「機械で助ける必要ある」
医師の言葉で理解した。
直ちにペースメーカーを埋め込む必要があるという。
緊急の大手術になる。
それは、このクラビー県の小さな病院では不可能。
医師は、手術可能な受け入れ先の病院探しを始めていた。
隣県のスラートターニー県にある県立病院か、プーケット県にある私立病院か。
2か所の候補地が挙げられた。

白い道 その8
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白い道 その6

やっと合点がいった。
この街にはタクシーというものがないのだ。
まったくないわけではないのだろうけれど、それはきわめて限定的で、一般市民が手軽に利用するものではないのだろう。
流しのタクシーを見かけないのもうなずける。
市内を循環する路線バスもない。
人々は、自分のバイクやクルマで移動するよりほかないのだ。
あとになって知ったのだが、公的な無料で利用できる救急車もない。
救急車が必要であれば、私立の病院が所有する救急車を直接呼ぶしかない。
公共の交通機関が乏しいということは、移動は全て自己責任だ。
ハイリスクではあるけれども、逆にこういう状況であるからこそ相互扶助の意識も生まれてくるのだろうか。
日本では「白タク」行為は当然にご法度だが、この街では立派なボランティアなのだ。
市民の安全と安心のため、無料の救急車が行き交う日本。
誰もがそれを当たり前と考えている。
しかし、救急出動の3台に1台は緊急性に疑問が残る利用と言われている。
複雑な気持ちが脳裏をよぎる。

白い道 その7
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白い道 その5

アイスクリーム売りの女性の運転するバイクの後方には、商売道具である小さい屋台が取り付けてある
やや窮屈ではあったが、どうにか街の中心部にあるホテルに戻ることができた。
謝意を告げチップを渡した。

ホテルの部屋に駆け上がり、残していた荷物を片付けて、カバンを運び出した。

ホテルのマスターに、親父を病院に連れていってもらった礼を言う。
「さっきは本当にすまなかった」
「それで親父さんは?」
「入院したよ」
「あんたは今晩どこに泊まるんだい?」
「決めていないけど… 今晩ここは空き部屋はある?」
「すまないな、今日は満室だ」
「そうなんだ」
「あの病院の向かいにゲストハウスがあっただろう。あれはオレのダチがやっているんだ。電話しておこうか」
「ありがとう。でも今日の晩はどこに泊まるのかわからない。病院に泊まるかもしれない」
「・・・」
「まずは病院に戻るよ。すまないがタクシーを呼んでもらえないか?」
ここまで言うと、マスターはまた黙ってしまった。
するとホテルの事務員の女性が声をかけてくれる。
「アタシのクルマに乗って行きな」
またしても、救いの手が差し出された。

白い道 その6
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白い道 その4

大通りに出てみたものの、車の数はさほど多くない。
しかしタクシーを見かけることはなかった。
路線バスのようなものがあるようにも見えなかった。
仕方なしに、病院に戻ることにする。
入口にガードマンの若い男が二人いた。
仕方なかった。
頼る人間を選んでいる暇はなかった。
やる気のなさそうなその二人に声をかけた。
「すまないが、タクシーを呼んでくれないか」
「タクシーですか?・・・」
通じていないわけではない。
反応がないのだ。

もう一人の男は、完全に輪の外にいた。
こちらの話を聞こうともしない。
それどころか、路上の移動販売のアイスクリーム屋から、棒状のアイスクリームを買って、それをしきりになめていた。

やり取りを聞いていたのか、アイスクリーム売りのムスリムの女性が言う。
「アタシのバイクに乗って行くかい?」
驚いた。
思わぬところから救いの手が伸びた。

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白い道 その3

病院に担ぎ込まれた後は混乱の連続だった。
病院の入口で車椅子を借りて病棟に入る。
すぐさま緊急治療室に運ばれた。

それから事務員が駆けつける。
事情を聴かれたけれど、うまく説明できない。
患者との関係を聞かれて、「自分は息子だ」と繰り返したのは、どうやら理解してもらえた。
それから先の細かい部分はうまく理解できない。
苛立ちが募る。
前金(保証金)を求められるのは、想定の範囲内。
5万バーツだった。
タイ語はまったくの初心者なのに、いきなり本番のステージに引きずり出されたようなものだ。
ただただ混乱した。
整理がつかない状態だった。
とはいえ取り乱した態度は、決してとってはならなかった。
最も混乱し、不安の底に追い込まれているのは、まぎれもなくのおフクロに他ならない。
そのおフクロの前では、うろたえた仕草は見せたくはなかった。

ホテルの部屋は散らかしたまま。
荷物はそのままの状態だった。
一旦ホテルに戻って荷物を片付けて、カバンをここに運びこまないといけなかった。

病院の建物から外に出た。
ひどく眩しかった。
病院の前の道に出る。
舗装された道路ではあったが、強い日差しに照らされているからなのか、輝いて見える。
白い道に見えた。
この道の先にあるのはどこなのだろう。
見ようとしても何も見えない。
底の見えないような深い不安に陥った、

白い道 その4
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白い道 その2

ここクラビータウンは朝から快晴で、今日も暑くなりそうだった。
カレンダーは1月1日となっているが、ここにいるとその感覚がない。
ごく普通の夏の一日だった。
朝市に出掛け、そこで朝食を済ませて、ホテルに戻った。
1階のフロアは開放的な造りで、心地よい風が吹き込んでくる空間だった。
フロントのソファに座っていたときに、先に部屋に戻っていた娘が駆けつけて言った。
「おじいちゃんの様子がおかしい。すぐに戻って来て」

心地よい気分が一転した。
親父が倒れていた。
それも意識がなく、痙攣していた。
全身蒼白になっていたうえに、額の傷からは血が流れていた。
意識を失ったときに転倒して切り傷ができたのだろう。
ユニットバスやベッドのシーツには、血痕が点々と散っていた。
何が起きたのか全然わからないが、異常事態であることは間違いない。

廊下にいたベッドメイクの従業員に片言のタイ語で叫んでいた。
「病院に行きたい。救急車を呼んでくれないか!」
「どうしたんですか」
「事故ですか」
部屋の中の異変に気付いた従業員の女性たちの悲鳴が聞こえてきた。
「わからない。とにかく救急車を呼んでくれ」

予定としては、今日の午後の便でバンコクに戻ることになっていたが、それどころではなくなってしまった。
直感した。「このままでは帰国できない」
カミさんと娘には予定通り午後便でバンコクへ向かい、翌日に帰国するよう告げた。
日本での連絡要員が必要になると考えたのだ。

やがて騒ぎを聞きつけたホテルのマスターが駆けつけた。
部屋は3階でエレベータはないところだったが、マスターは親父を背負って1階に下りて行った。
マスターの男は、身体はさほど大きくはなかったが、その腕力と迅速さに驚いた。

何が起こったのだろうか。
親父は朝市には出かけていない。
おフクロの言によると
「疲れたから行かない。寝ている」と断ったという。
すでに体調に異変が起きていたのだろうか。
昨日の晩、クラビータウンの夜市に出掛けたが、その時は異常な様子はなかったのだが…

ホテルのマスターはワゴン車を用意してくれた。
後部座席に手早く親父を乗せ、僕らもすぐに乗り込んだ。
自らハンドルを握り、病院に急行した。
何という名前の病院か。
「International」の文字が目に入ってきた。

白い道 その3
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