一道少年 その3

一道少年が受けた警策は、修業とは程遠い壮絶なイジメであった。
「罰策」(ばっさく)・「罰警」(ばっけい)言われる、いわば「ペナルティ」として警策が使われることもまったくないわけではないが、一道少年が受けた警策は、いいがかりとしか言いようのないイジメであり、リンチでしかなかった。
大館の寺に修行に来ていた若い修行僧は、みな秋田県内の寺院から来たいわゆる「お坊ちゃん」であった。
よそ者で、継ぐべき寺もない貧乏な育ちであった一道少年は、その先輩僧の恰好の餌食にされた。
いわれのない理由や、些細なことにいい掛かりをつけては、一道少年を呼びつけ、寄ってたかって警策でメッタ打ちにしたのである。
背中は傷だらけで、その傷が癒えることはなかった。
情け容赦ないメッタ打ちは、時としてその警策が折れるほどだった。
一道少年は、次第に絶望の淵に追い込まれていった。
極寒の寺での修業の朝は早い。
早朝の5時からの修行。
凍てつく寒さの中での鐘つき。
一汁一菜の粗食を続けての修行。
それらに耐えることはできる。
「生きていることが修行」と父はよく話していた。
しかし先輩僧からのイジメは耐えられないものだった。
しかも同じ仏の道を志す修行僧からのイジメだったので、余計に耐え難いものに思えたのだった。
誰も助けてくれる者はいなかった。
これが仏の道なのか?
これが修行の道なのか?
自問自答を繰り返した。

一道少年 その4
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一道少年 その2

一道(かずみち)少年は、北海道天塩町雄信内の曹洞宗の禅寺で生まれた。
それは昭和16年のことだった。
一つの道…父は、仏の道に精進するようにとの願いをこめて、この名を付けたのだった。
幼少のころから、僧侶であった父の背中を見て育ち、修行に励むことになる。
10歳で得度し、12歳から病弱な父に代わって住職代理を務めた。
父の死後は、困窮した生活を余儀なくされる。
もともと人口も少ない北海道のはずれ。
檀家の数は極めて少ないものだった。
しかし、下肢に障害を持つ母とともに檀家回りを続け、寺を守った。
中学卒業後は、秋田県大館市内の寺院に住み込みの修行に出ることになる。

曹洞宗は、禅宗の一派である。
日本史の教科書には、鎌倉新仏教のひとつで、道元によって日本にもたらされたとある。
臨済宗と並ぶ禅宗の二大宗派で、地方の武士や農民に広く受け入れられたとも言われている。
福井県の永平寺が総本山。
ひたすら坐禅すること(只管打坐・しかんたざ)によって悟りの境地を体得しようとするところに特徴がある。
その坐禅と切っても切れない関係にあるのが、警策(きょうさく)である。
曹洞宗の世界には、「警策をいただく」という言葉がある。
直日(じきじつ)または直堂(じきどう)と呼ばれる僧が、禅堂内を巡回し、修行者の坐禅を点検する。
坐禅中に眠くなったり、姿勢が悪かったり、心が散漫になったときは、直日・直堂から警策で肩を打たれる。
この警策は、文殊菩薩の手の代わりであると考えられている。
つまり警策で打つという行為は、坐禅修行が円滑に進むようにという「文殊菩薩による励まし」という意味を持つ。
打つ側である直日・直堂は「警策を与える」、打たれる側である修行者は「警策をいただく」という言い方をする。
そして警策で打つ前と後には合掌して頭を下げ、お互いに感謝の意を表す。
ここからわかるとおり、警策で打たれることは、修行の中での「励まし」であって、肯定的な意味合いを持つことに他ならない。
しかし一道少年が受けた警策は、これとは全く別のものであった。
悪夢のような日々だったのだ。

一道少年 その3
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一道少年 その1

タイは仏教の国です。
タイは国民の大多数が仏教徒であり、生活にも仏教の教えが色濃く表れています。
とりわけ、功徳を積むことを「ทำบุญタンブン」といい、タイ人はこの「ทำบุญタンブン」とても大切にしているのです。
例えば、僧侶に食料などを与える托鉢(=ตักบาตร)は、ごく自然に行われています。
困った人を助けるという行為も「ทำบุญタンブン」の一つです。
「ทำบุญタンブン」は「徳を積む」行いであって、これを重ねることで、来世の自分が良い状態で生まれ変わると信じているのです。
その「ทำบุญタンブン」で、最も徳が高いと言われるのが「บวช出家」です。
タイでは、男性なら一生に最低一回は「บวช出家」するとも言われているのです。
私たち日本人には、「出家」というと特別なことばのように感じます。
仏教徒が多いと言われながら、仏教の教えが生活に及んでいるのは、冠婚葬祭などごく一部に限られています。
ですから、実際に出家する者はほとんどいません。
もちろん僕自身も、出家の経験はありません。
出家した後の、寺での修業は、さぞかし厳しいものなのだろう…
想像するところですが、それはあくまで「想像」に過ぎません。
その修行生活は、書物などを通じて知るにとどまります。
これまで数々の本を読んだものですが、その中で最も印象に残っているのが、一道(かずみち)少年の修行時代のことです。

一道少年 その2
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最良の勉強法

タイ語の勉強をしているというけれど、遅々として進まない。
なかなか成果が出ないのに苛立つこともよくある。
この分野は同じ外国語のなかでも、英語や他のメジャーな言語と異なり、教えてくれる学校や先生も少ない。
参考書や辞書も限られている。
基本的に独学でやっていくしかない。
そんななかで、どうやったら効率的に効果的に勉強できるのか。
これは、永遠の課題といっていい。
でも結局は、自分自身で試行錯誤しながら、時には軌道修正しながら、自分に合った方法を模索しながら進めていくことにしている。
立ち止まらなければ、それでよい。
いずれじわじわと効果が現れる。
そう言い聞かせている。

いまの中学生や高校生は勉強の合間にラジオを聴くことはないのかもしれない。
しかし、僕が学生だった頃は、ラジオのよく聴いていたものだった。
当時の人気番組のひとつに、ニッポン放送で放送していた「三宅裕司のヤングパラダイス」があった。
テンポの良い喋りがウケて、リスナーも多かったように思う。
僕もこの番組をよく聴いていた。
ある日、その番組の中に、新しいコーナーができることを聞いた。
一人のメインのパーソナリティが番組の進行を務める。
たいていは女性のアシスタント役が付き、受け答えの役をする。
トークの合間にリスナーからのリクエストに合わせて、音楽を挟む。
コーナーの時間は15分ほどだったと思う。
よくある構成だ。
新しいコーナーのメイン・パーソナリティは、「期待の若手放送作家」だという。
期待しながら、その新コーナーを聴くことにした。
ところが…
番組の評価はイマイチだった。
当時は三宅裕司や吉田照美など、テンポの良い喋りを売りにした司会者が多かったが、この若手放送作家の喋りは、彼らとは違った。
テンポが良くないのは確かだが、どこか暗かった。
内容的に悪くはないのだが、リスナーに響く何かが感じられなかった。
聴いている僕は思った。
「このコーナーは長続きしないだろうな…」
同じように考えたリスナーは少なくなかったように思う。
でも、そのコーナーの中で、この若手放送作家が話していたことで、一つだけ今でもよく覚えていることがある。
それは、こんな話だった。
「僕らが中学生や高校生だったときもよくラジオは聴いていたな」
「当時の番組もこんな感じで、リスナーからのハガキリクエストを受け付けていた」
「僕もよくハガキを書いたけれど、いつまでたっても採用されない」
「なんでオレの書いたハガキは読まれないのだろうか」
「読まれるハガキとオレのハガキはどこが違うのだろうか」
「自分で考えたよ。どこが違うのか」
「こういうことは誰かが教えてくれるわけではない。参考書があるわけでもない」
「だから自分で考えたんだ」
「そのうちだんだんと分かってきた。どこに違いがあるのかが」
「そしてその違いを意識しながらハガキを書くようにした」
「そうしているうちに少しずつオレのハガキが採用されるようになった」
「そしていつのまにか、毎週ハガキを読まれる『常連さん』になったんだ」
いまになってこのことがよくわかる。
年齢を重ね、そのことがよく理解できるようになった。
その新コーナーは、僕の予想していたように、あまり長くは続かなかった。
僕自身も、そのこと自体忘れかけていた。
若手放送作家は、ラジオのパーソナリティとしては、いまひとつであったが、その後は「自分で考えて」別の道を模索していたのだろう。
しばらく後に、「夕焼けニャンニャン」というテレビ番組が放送されるようになった。
当時の中学生高校生の間では知らない者はいない人気番組だった。
その人気番組の仕掛人が、件の若手放送作家だったことを後になって知った。
若手放送作家とは、秋元康その人だ。

勉強のこと、仕事のこと。
うまくできなくて悩むのは当たり前。
簡単に答えが探せるわけではない。
簡単にやり方がマスターできるわけではない。
教えてくれる人もいない、マニュアルもない。
そんな状況の中で、どんな方法が良いのを自分で考えるのが大事なのだ。
何かをモノにしようとする人間は、自分のやり方を確立する。
自分だけのオリジナルのやり方を見つける。
今となっては古臭い話題だが、その若手放送作家は、早くからそのことに気がついて、かつそれを実践してきたのだと思う。
道半ばで、なかなか成果が見えてはこないけど、これからも「自分で考える」ことを忘れないようにしたいと思う。

転職 การเปลี่ยนงาน

若者の離職率が高いと言われています。
厚生労働省が発表している「学歴別卒業後3年以内離職率の推移」によれば、
大卒でも約30%の人が早期に離職をしていることがわかります。
せっかく雇用しても長続きしない。
でもこうした現象は、アジアでは昔からよくあることなのです。
確かに就職して間もないうちに離職してしまうことは健全とは言えないでしょう。
しかし、離職すること自体を問題視するのはどうでしょうか。
それ相当の理由があれば、離職そして転職は否定できないのではないかとで思います。
日本では、一般的に終身雇用制が定着しています。
この制度は、大正時代頃に生まれたと言われています。
産業革命を経て、経済大国の基礎を築いた日本にとって、熟練工を早くに育てて、その流出を防ぐことは企業にとって大きな課題だったのです。
モノづくりを得意とした日本では、それはごく自然な発想とも言えます。
ところがいまの企業の置かれている状況は以前とは大きく変化しています。
企業のサイクルは年々短くなっているのです。
モノづくりの質が劇的に高くなったから、レベルの追い付かない企業は、早々に淘汰されてしまうのです。
またモノづくりだけが全てではなくなったこともあります。
多種多様なサービスを提供する企業が生まれて、短時間で次の新しい企業にとって代わられるような時代になっているのです。
グローバル化の進展が著しくなったのも、その競争を激化させている要因だと思います。
いま脚光を浴びている大手企業も十年先はどうなっているのか全く予想できないような状況になりつつあります。
僕の親の世代であれば、鉄鋼業、造船業、繊維産業などが花形だったのかもしれませんが、僕の世代では、流通業や商社、証券業などの業界が人気でした。
いまの世代の花形はどういう業種か調べてみると、航空会社や銀行証券などの金融関係、旅行会社などが人気上位にあるようです。
このさきどう変化していくのかは予想できません。
企業の栄枯盛衰のサイクルは想像以上に速くなっています。
大げさに言えば、企業の一生はサラリーマンの一生よりも短いと言っても過言ではないでしょう。
こうした現状を考えれば、これからは引退するまで同じ企業で働く人のほうが少数派になっていくのかもしれません。
離職してでも将来の職業を考えていくこと自体は、決して悪いことではないと私は考えます。

集団主義的な「安心社会」から個人的主義な「信頼社会」への移行

私たちは毎日多くの商品の売買などの取引をはじめとした経済活動を営んでいます。
その背景には、民法や商法といった法律やさまざまな消費者を保護する制度があります。
このような制度は人々の行動を規制する一方で、一定のルールを決めることで人々を集団のなかで保護してきた役割を持ってきたと言えます。
しかしこうした集団主義的な制度のもとでの「安心社会」が、万能と言えるのでしょうか。
経済活動は日を追うごとに複雑になっています。
個々人の好みは細分化して、より細やかで質の高い商品やサービスが求められるようになっています。
情報を伝達していく手段も多様になっています。
店頭で実際に商品を手に取って購入するような形態だけではなく、インターネットを通じて商取引する機会が増えています。
仮想通貨の出現など、支払いなどの決済方法も変化するようになりました。
十数年前には考えられなかったような新しい形態の商取引も現れるようになったと言えるのです。
こうした商取引の質の変化は、人々に大きな利便性をもたらしてきたわけですが、その一方で、これまでなかったような新しい形の取引上のトラブルも生まれてきます。
何らかの問題が生じてから対策を考えることが普通なので、法律の整備は後に後に回ってしまうものなのです。
消費者保護といいながら、法制度が実態に追いつかないような事態になってしまい、十分な保護がなされないこともあるのです。
これからは、従来の集団主義的な「安心社会」に甘んじてはならないのだと思います。
集団主義的な「安心社会」が、法や制度で保護される社会であるのに対して、個人的主義な社会は、自らの判断する「自己責任の世界」で、信頼できるのかどうかは、自ら判断していかなければならないのです。
私たちは個々の経済行動において、その商品が信用できるのか、あるいは相手方が信頼できるのか、慎重な判断が必要になっているのです。
多くの情報に接することで、判断の材料となる知識の蓄積も必要でしょう。
インターネット上の取引となれば、ネット社会に見合ったモラルも必要になるでしょう。
自らの身を護るためにも、そして「信頼社会」へ移行するためにも、より一層の自己責任を持った行動が求められると私は考えます。

塀の外のマッサージ嬢 その2

うちのおフクロは、そのマッサージ店がひどく気に入ったようで、次の日も行こうと言った。
今日は2時間コースにした。
贅沢だ。日本では考えられない。
タイ式マッサージを1時間頼んだところで、料金は、うちの会社のアルバイトの時給より安い。
今日僕を担当することになったマッサージ嬢は、昨日と同じマッサージ嬢だった。
今日も屈託のない笑顔を見せた。
世間話ができるほど、僕のタイ語のレベルは高くない。
それでも嫌な表情を見せることもなく、片言のタイ語を聞いてくれた。
快適な時を過ごすことができた。
全身の力をかけるかのように、力強く揉んだり、押したり、引っ張ったり…
かなりの重労働だ。
相当に疲れるにちがいない。
袖口を少しまくった拍子に、彼女のややふくよかな二の腕が覗いた。
腕には一面の鮮やかな刺青があるのがわかる。
彼女の過去に何があったのだろうか。
無論、それを問うだけの度胸は、持ち合わせてはいない。
帰り際に彼女にメモを渡す。
マッサージの現場で想定されるいくつかの日本語をメモしていた。
「aomuke(仰向け)=นอนหงาย」
「utsubuse(うつぶせ)=นอนคว่ำ」
「itaidesuka(痛いですか)=เจ็บไหมคะ」
「ashi(脚)=ขา」
「senaka(背中)=หลัง」
「tatsu(立つ)=ยืน」
「suwaru(座る)=นั่ง」
「ichijikan(1時間)=หนึ่งชั่วโมง」
「nijikan(2時間)=สองชั่วโมง」
彼女の表情が明るくなったのがすぐにわかった。
しかしその表情は長くは続かない。
メモは、ほどなくして刑務官の手に渡った。
やはりここは管理された空間だ。
塀の中のルールが適用される。
たとえ紙片ひとつでも、個人的な物のやり取りは厳禁なのだ。
仮にチップをやろうとしても、それは入口近くに設置された募金箱に入れられることになる。
店を出たあとに考える。
彼女には頑張ってもらいたいと…
一流のマッサージ師になって、自立した生計を立ててもらいたいと…
สู้ๆนะ พยายามต่อไปนะ…
そして再び塀の中の暮らしに戻ることのないよう強く願った。


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塀の外のマッサージ嬢 その1

その部屋は少し照明を落とした薄暗い部屋だった。
どこからかハーブの香りが漂う、ひんやりとした部屋だった。
まったく静かで落ち着いた雰囲気だった。
実に心地よい空間だった。
ここは北の都チェンマイ。
とあるマッサージ店のなかだった。
「でもしっかり見られているんだね」
「何が?」
「カメラだよ。監視カメラ。入ってからここに来るまで、気がついただけでも5台はあったと思う」
天井の隅に半円形のカメラがついているのがわかる。
隣にいたおフクロは気がついていない。
受付に制服姿で座っているのは刑務官なのだろう。
背後にあるいくつのもモニターは、それぞれの部屋の様子を捉えている。
隣でマッサージを受けているおフクロは、マッサージ嬢の話すタイ語がわからない。
「手をつかんで」
「仰向けに」
「座って」
など所々声をかけられているのだか、当然ながらリアクションがない。
「『仰向けになって』って言っているよ」
などと隣にいた僕が小声で言う。
一般のマッサージ店だったら、外国人観光客もよく立ち寄るだろうから、片言の英語を話すマッサージ師もいるだろう。
でもここはやはり一般のマッサージ店ではないのだ。
マッサージ師の共通項は、全員が見習いであること。
全員が女性であること。
そして、全員が過去に何らかの過ちを犯したことがあるということ。
この店の名は “Women’s Prison”。
服役中の女囚の職業訓練のための施設なのだ。
僕を担当したマッサージ嬢は、暗い素振りも見せずに、明るく笑う。
「お兄さん、少しタイ語がわかるんだね」

塀の外のマッサージ嬢 その2
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OTOPのお店に行こう หนื่งตำบลหหนื่งผลิตภัณท์ 

OTOPという言葉を聞いたことがありますか?
あるいはOTOPと書かれた看板を見たことがありますか?

OTOPは一村一製品運動と訳されます。
英語のOne Tambon One Product Conceptの略語で、タイ語では、หนื่งตำบลหหนื่งผลิตภัณท์ と書かれます。
これはタイのタクシン首相によって提案された地域おこし運動のことです。
それぞれ町ごとに特産品を作ることで地域経済の活発化を図る取り組みです。

一村一製品運動??
日本人ならどこかで聞いたことがあるような気がしませんか?
そうです。そのルーツは九州・大分県で始まった一村一品運動です。
タイの人は、なかなかシャープですね。
日本の地方都市の事情もよく観察しています。
そして優れた取り組みであれば、積極的に取り入れています。

ただタイの場合は、日本とは異なり、もう少し重い背景があるような気がします。
単にウリになる商品や製品を育てて、街おこしの材料にすればいい。
あるいは有名になって観光客をたくさん呼び寄せるようにしよう、というようなありきたりの話ではないのです。
地方の農村が自立した経済を持たない状況というのは、非常に危険だったのです。

プミポン前国王陛下のロイヤル・プロジェクトのひとつに、北部の山岳民族の生計支援がありました。
付加価値の高いお菓子などの加工食品や伝統工芸品の生産を促進させました。
もしこれがうまくいかなければ、それは「昔」に戻ってしまうかも知れない。
もし山岳民族の経済状況が落ちぶれてしまったら、やはり「昔」に戻ってしまうかも知れない。
「昔」とは、つまりケシの栽培です。
いくら努力しても、思うように儲けが得られなければ、農民はやる気をなくしてしまうでしょう。
下手をすると、「ラクな道」を選んでしまうことにもなりかねません。
農民は、ケシは栽培が比較的簡単で、ケシの実は非常に高価で取り引きされることを知っているのです。

麻薬の撲滅は、タイにとっては大きな課題です。
そのためにも、農村経済の安定は必要不可欠なのです。
農村がダメになったら、国全体もダメになってしまう。
そういった危機感があるように感じます。

旅行者のみなさんも、機会がありましたら、ぜひOTOPのお店に立ち寄ってください。
お土産屋の一角に行けば、見つけられると思います。
そこでお気に入りの一品を見つけてみてはいかがでしょうか…


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そば屋のAさんとそば屋のBさん その3

さてここまで読んでいただいたみなさまは、どのような感想をお持ちでしょうか。
あなたはAさんの立場をとりますか?
それともBさんの立場をとりますか?

実はこの寓話を、以前知り合いだった東南アジア出身(タイ人とベトナム人)の学生にしたことがあります。
「君だったらどっちの立場が正解だと思う?」
2人とも答えに窮していましたが…
どちらが正解ということはありません。
必要なのは、AさんBさんの両方です。
どっちも必要なのです。
どちらか一方のみに偏ってはうまくいきません。
それから先は、個人の選択です。
「どちらかと言えばAさんに近い」とか「どちらかと言えばBさんかな」という風に考えるのが自然な気がします。
タイ人がよく言う言葉に「道の真ん中を歩め」というのがあります。
これはもちろん物理的に道路の真ん中を歩けという危ない話ではありません。
「何事も中庸を重んじるべし」という意味なのです。
件の学生が留学を終えて帰国する時に、この話のことをよく覚えていてくれました。
そのベトナム人の彼女は帰国してから、さらに勉強を続けて、再来日して東京で就職したと聞きました。
いまは何をしているのかわかりませんが、きっと中庸を重んじて、バランス感覚を持って仕事をしているのではないかと思います。