เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้ 読むとホッとする二人の日本人のイイ話 その2

ต่อมาเพื่อนร่วมงานของคุณลุงนิรนามคนนั้น ได้อ่านเรื่องราวของน้อง Sakimoto ที่ได้รับการเผยแพร่ online เมื่อวันที่ 10 พฤษภาคม 2019 และก็ฉุกคิดได้ว่าคุณลุงคนนั้นจะต้องเป็นเพื่อนที่ทำงานด้วยกันแน่ๆ จึงไปแจ้งคุณลุงคนนั้นให้ทราบ และคุณลุงคนนั้นเองก็ได้โทรศัพท์กลับไปที่โรงเรียนของน้อง Sakimoto เพื่อแจ้งชื่อและขอเข้าพบน้อง ซึ่งทางโรงเรียนก็ได้จัดแจงให้ทั้งสองคนได้มีโอกาสพบกันในเวลาไม่นาน ^^

その後、名もなきその男性の同僚が、 2019年5月10日にネット上で崎元君の記事を目にします。そして記事の「名もなき男性」は、自分の同僚であるに違いないことを直感したのです。そして、「名もなき男性」である同僚に、記事の内容を知らせます。男性は、すぐに崎元君の学校に連絡し、自身の名前を知らせ、崎元君に会いたいと頼みました。学校も近く二人が会う機会をセットすることになりました。

ในวันที่ 21 พฤษภาคม 2019 ซึ่งทั้งสองนัดพบกันนั้นมีสื่อมวลชนให้ความสนใจในเรื่องราวของทั้งสองคนและเดินทางมาทำข่าวที่โรงเรียนกันอย่างคึกคัก เมื่อถึงเวลานัดหมายคุณลุงนิรนามก็เข้ามาพบน้อง Sakimoto และทั้งสองก็ได้ทำความรู้จักกัน โดยคุณลุงผู้ใจดีคนนี้คือ คุณหมอ Hiroshi Inoya อายุ 68 ปี พื้นเพเดิมเป็นคนนาฮาแต่ปัจจุบันย้ายไปอยู่จังหวัดไซตามะ ซึ่งเมื่อทั้งสองได้ทักทายกันแล้ว น้อง Sakimoto ได้กล่าวขอบคุณคุณหมอ Inoya พร้อมทำการส่งมอบเงินจำนวน 60,000 เยนคืนคุณหมอต่อหน้าสื่อมวลชนด้วย นอกจากนี้น้อง Sakimoto ยังเตรียมของขวัญคือ ที่ทับกระดาษ Hand made สุดพิเศษที่สลักชื่อของน้อง Sakimoto และคุณหมอ Inoya พร้อมอักษรคันจิที่แปลว่า “ขอบคุณ” และมอบให้กับคุณหมอด้วย

2019年5月21日。名もなきその男性が沖縄を訪れる日です。二人の再開の日です。この日のこのニュースは、マスコミも大いに注目しています。約束の時間に、その名もなき男性が崎元君のもとに現れました。この時の二人は初めてお互いを知ることになります。この心優しい男性は、医師の猪野屋博さん(68歳)。元々那覇の出身でしたが、現在は埼玉県に住んでいます。報道陣の前で二人は挨拶を交わし、崎元君は猪野屋さんに感謝の気持ちを述べ、用意していた6万円を返しました。また、崎元君は、「感謝」の漢字とともに猪野屋さんと崎元君の名前が刻まれた手作りの文鎮をプレゼントしたのです。

ทางด้านคุณหมอ Inoya ก็ดีใจมากที่น้อง Sakimoto ทำของสุดพิเศษมาให้ ขณะที่คุณหมอก็เตรียมของขวัญชิ้นงามให้กับน้องเช่นกัน เมื่อน้องเปิดมาก็ติ้นตันใจเพราะคุณลุงซื้อ “กระเป่าสตางค์ใบใหม่” ให้กับน้องแถมยังบอกน้อง Sakimoto อีกว่า “อย่าทำหายอีกนะ” ^^ ซึ่งทั้งสองก็มีความสุขมากจริงๆกับการพบเจอกันในครั้งนี้และต่างคนต่างก็ไม่ได้ติดค้างอะไรในใจอีก จากนั้นผู้สื่อข่าวก็ถามคุณลุงถึงสาเหตุที่กล้าให้เงินคนที่ไม่รู้จักกันมาก่อนเพราะอะไร ลุงก็ตอบไปว่า “ตอนนี้เราอยู่ในศักราชเรวะ เราก็ควรเริ่มต้นด้วยความคิดดีๆ มากกว่าความสงสัยในตัวบุคคล ให้ลองเชื่อใจมนุษย์คนอื่นดูและหยิบยื่นความช่วยเหลือให้กับเขาเท่าที่เราจะทำได้ครับ” ส่วนน้อง Sakimoto ก็กล่าวเพิ่มเติมด้วยว่า “ผมจะไม่ลืมความรู้สึกดีๆที่ได้รับในวันนี้เลย และพอผมโตขึ้น ผมก็อยากจะเป็นผู้ที่ช่วยเหลือผู้ที่ตกทุกข์ได้ยากเช่นเดียวกับคุณลุงครับ”

猪野屋さんは、崎元君が特別なプレゼントを作ってくれてことをとても喜びます。彼も崎元君のために美しい贈り物を用意していました。「新しい財布」でした。崎元君にこれを渡します。「もう二度と失くしてはいけないよ」と言いながら…。二人は今回再会することができ、互いに心の中の思いを伝えることができました。その後レポーターは、猪野屋さんになぜ面識のまったくない誰かにお金をあげることをあえてしたかについて尋ねました。猪野屋さんは答えます。「令和という新しい時代に入りました。人を疑うことよりも、まずは人の善い考えから始めるべきです。他人を信頼し、できるだけ多くの人に手を差し伸べるようにしてください。」 一方の崎元君は、 「今日受けたこの素晴らしい気持ちを忘れることはありません。そして将来は、猪野屋さんと同じように、困っている人たちを助けられる大人になりたいです。」と話しました。

สุดท้ายยังมีข่าวดีอีกเรื่องก็คือ มีผู้พบกระเป๋าสตางค์ของน้อง Sakimoto ที่สถานีรถไฟและได้ส่งคืนให้กับเจ้าหน้าที่ ซึ่งเงินสดต่างๆของน้องยัง “อยู่ครบ” ตามสไตล์ญี่ปุ่นและน้องก็มารับไปเรียบร้อยแล้วด้วย ^^

最後に、もう一つ良いニュースがあります。 崎元君の財布は駅で見つけられ、モノレールの駅員に届けられていました。彼のお金は、そっくりそのまま戻ってきたのでした。

微笑みの国と呼ばれるタイ。
そしてそのことを誇りに感じているタイ人。
しかしながら、急速な都市化でバンコクでは、人々は微笑みを見せることが少なくなったという声もあります。
そんな世知辛いいまの時代だからこそ、こうした美談が好まれるのかもしれません。
この記事を読んで、微笑みを誘うだけでなく、”นี่แหละคือญี่ปุ่น”「これこそ日本だ」と感じたタイ人も多かったとか…
「I Love Japan」の記事にはこれからも注目していきます。
●タイ語については、僕自身がただいま勉強中です。
誤字脱字や誤訳などがありましたら、ご連絡いただければ幸いです。
記事引用 เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้
วันศุกร์, 24 พฤษภาคม 2562
https://www.ilovejapan.co.th/essentials/entry/feel-good-story-between-2-japanese-people


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เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้ 読むとホッとする二人の日本人のイイ話 その1

日本の文化や日本事情を紹介するタイのメディアが増えていることは、これまでもお伝えしているところです。
「I Love Japan」というテレビ番組もそのひとつです。
この番組「I Love Japan」は、教科書に載っている日本語のみならず、広く日本人の間で使われている表現も含めて、現在の日本語とニッポン事情を広く伝えています。
この「I Love Japan」のネット記事を見ていたところ、非常に興味深い記事を見つけました。
เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้ 「読むとホッとする二人の日本人のイイ話」と題するこの記事は、最近実際に沖縄県であった美談でした。
この記事を目にするまでは、こういったことが最近あったことは知りませんでした。
さすが、日本の細かいところまでよく見ています。
そして、こうした美談が好きなのは、日本もタイも同じなのですね。

เรื่องราวที่จะเล่าให้ฟังนี้เกิดขึ้นที่เมืองนาฮา จังหวัดโอกินาวะ และได้รับการเปิดเผยให้ทราบเป็นวงกว้างเมื่อวันอังคารที่ 21 พฤษภาคม 2019 ที่ผ่านมา โดยเป็นเรื่องราวของชายต่างวัยสองคนที่คนหนึ่งเป็นนักเรียนมัธยมปลายและอีกคนหนึ่งคือคุณหมอจากเมืองใหญ่ ซึ่งทั้งสองคนไม่เคยรู้จักกันมาก่อนแต่ก็ได้มาพบกันอีกครั้งเพื่อมอบบางอย่างที่ค้างคาใจให้กันและก็จบลงอย่าง Happy ending ผ่านการช่วยเหลือของสื่อมวลชนในท้องถิ่นครับ ซึ่งเรื่องทั้งหมดนี้ก็มีอยู่ว่า

今回お伝えするストーリーは沖縄県那覇市で実際にあった話で、これが明らかになったのは2019年5月21日火曜日のことです。それは世代の異なる2人の男性のストーリーであり、うちの1人は高校生で、もう1人は大都市から来た医師でした。それまで面識のなかった二人でしたが、彼らの心に残され何かを伝えるために、そしてハッピーエンドで終わるために、再び会うことになったのです。その陰には地元のマスコミの協力もありました。以下がそのストーリーです。

เมื่อวันที่ 24 เมษายน 2019 นักเรียนมัธยมปลายนายหนึ่งชื่อว่า น้อง Soma Sakimoto อายุ 17 ปี เป็นนักเรียนของ Okinawa Technical High School ในจังหวัดโอกินาวะ กำลังนั่งรถไฟ Monorail ไปที่สนามบินนาฮาอย่างเร่งด่วนเพื่อรีบซื้อตั๋วแล้วนั่งเครื่องบินกลับไปร่วมงานศพของคุณลุงที่บ้านเกิดของเขา ณ เกาะโยนากุนิซึ่งอยู่ห่างจากนาฮาออกไปอีกหลายร้อยกิโลเมตรซึ่งแน่นอนว่าการจากไปอย่างกะทันหันของคุณลุงทำให้เขาไม่ได้มีการซื้อตั๋วล่วงหน้ามาก่อน

2019年4月24日、沖縄県の沖縄工業高校の高校生である崎元颯馬君(17歳)は、モノレールに乗って那覇空港に急いでいました。那覇から数百キロも離れた故郷の与那国島に帰り、そこで叔父の葬儀に参加するためでした。叔父の突然の他界です。前もってチケットを買うことなどできるはずもありません。

จังหวะที่น้อง Sakimoto กำลังจะลงจากรถไฟที่สถานี Naha Airport ซึ่งเป็นสถานีสุดท้ายนั้น ปรากฏว่า น้องได้คลำกระเป๋าเงินและพบว่า “เขาทำกระเป๋าสตางค์หาย!!!” แน่นอนว่าเงินที่จะเอาไปซื้อตั๋วเครื่องบินก็หายไปด้วย! จังหวะที่น้องกำลังอึ้งอยู่นั้น ก็มีคุณลุงคนหนึ่งที่กำลังจะขึ้นรถไฟสังเกตเห็นท่าทางน้องกำลังเดือดร้อนก็เลยเข้าไปสอบถามว่าเกิดอะไรขึ้น น้อง Sakimoto จึงเล่าให้คุณลุงนิรนามคนนั้นฟังว่า เขาทำกระเป๋าสตางค์หายและต้องรีบซื้อตั๋วเครื่องบินกลับบ้านเกิด…….จังหวะนั้นเอง คุณลุงนิรนามก็ควักเงินออกมาให้น้อง 60,000 เยน (หกหมื่นเยน) ก่อนที่ประตูรถไฟจะปิดลงและทั้งสองก็แยกย้ายกันไป

崎元君が終着駅である那覇空港駅で電車を降りようとしていたまさにその時に気がつきました。財布に手を伸ばしたときに、その財布がなくなっていたことを…。もちろん、航空券を買うためのお金もなくなっています。彼は落胆し、途方に暮れてしまいます。その時に電車に乗りこんだ一人の男性がいました。男性は、困惑した様子の崎元君に気がつき、何が起こったのか尋ねます。崎元君は、財布をなくしてしまったことと、飛行機の切符を買い、急いで郷里に戻らなければならないことを、とっさに答えたのでした。名もなきその男性は、電車のドアが閉まる前に6万円でお金を出して崎元君に渡します。そして、崎元君は急いで空港に向かいました。

น้อง Sakimoto สามารถซื้อตั๋วเครื่องบินและขึ้นเครื่องได้ทันเวลาเพราะเงินที่คุณลุงนิรนามคนนั้นออกให้…ทว่าสิ่งที่น้อง Sakimoto รู้สึกอึดอัดใจเป็นอย่างมากหลังจากวันนั้นก็คือ เขาไม่มีโอกาสแม้กระทั่งจะถามชื่อหรือช่องทางการติดต่อคุณลุงผู้ใจดีคนนั้นเพื่อคืนเงินให้ได้เลย T_T

崎元君は飛行機の切符を買うことができ、フライトに間に合うことができました。それはもちろん名もなきその男性のおかげです。しかし、崎元君はその日から悶々としたふさいだ気持ちが募っていくことになります。彼はその心優しい男性の名前も連絡先も尋ねることができなかったからです。これでは借りたお金を返すことなどできるはずもありません。

หลังจากเสร็จธุระที่เกาะบ้านเกิดแล้ว น้อง Sakimoto รู้สึกไม่สบายใจในเรื่องดังกล่าวจนกระทั่งเขาได้เล่าถึงเหตุการณ์ดังกล่าวให้คุณครูประจำชั้นและขอคำแนะนำ ซึ่งคุณครูประจำชั้นก็ให้คำแนะนำว่าให้ลองติดต่อสื่อมวลชนท้องถิ่นดู ไม่นานนักสื่อมวลชนท้องถิ่นก็ตกลงที่จะเผยแพร่เรื่องราวของน้อง Sakimoto และประกาศตามหาคุณลุงนิรนามผู้ใจดีคนนั้นให้ด้วยความเต็มใจ

故郷での葬儀を終えたあとも、崎元君の気持ちが晴れることはありませんでした。そこで、彼は学級担任の先生に、その時の出来事の一部始終を話し、アドバイスを求めたのです。学級担任の先生は、地元のマスコミに連絡を取ってみるようアドバイスします。その後、地元のマスコミ関係者は、崎元君の話を公表することに同意しました。そして崎元君が、名もなき心優しいその男性を懸命に探していることを発表したのです。


เรื่องดีๆของชาวญี่ปุ่นสองคนที่อ่านจบแล้วยิ้มได้ 読むとホッとする二人の日本人のイイ話 その2
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軌間 その4 改軌そして東南アジアの鉄道網

改軌とは、異なる軌間を変更すること言う。
工事の方法は、一般的には既にある2本あるレールにもう1本改軌後のレールを敷いて、その後不要の1本を撤去する方法である。
工事期間中も列車の運行は続いているので、このような手法が取られることになる。
とはいえこの改軌工事は、相当な労力と時間を伴うことは想像に難くない。
この難工事をいまからおよそ100年前に敢行した国がある。
それがタイ王国である。

タイの鉄道は1890年代に始まった。
最初の路線は1893年に開通したバンコク市内からのパークナムまでの民間鉄道であるパークナム鉄道であった。(現在は廃線)。
その後1897年3月にバンコク-アユタヤ間が開通し、これが国鉄最初の路線となった。
その起点となった駅が現在のフワランポーン駅 (สถานีรถไฟกรุงเทพ・バンコク中央駅)である。
その当時採用された軌間が標準軌(1,435 mm)だった。
フワランポーン駅を起点とする北線・東北線は、この標準軌によって敷設された。
ところが南部では標準軌ではなく、狭軌が使われていた。
メーターゲージと呼ばれた1,000ミリ幅の狭軌が使われたのである。
このメーターゲージは東南アジア諸国に特有のもので、他にベトナムやカンボジアといった北部仏印でも採用されていた。(そのため通称 “インドシナ標準軌”とも呼ばれる)
英国領のマレー半島にも鉄道が敷設されたが、この時に使われたのがメーターゲージだった。
諸説あるものの、建設コストの面からあるいはマレー半島への接続を意図したのか、南線はメーターゲージが採用された。
このようにして初期のタイの鉄道は標準軌と狭軌(メーターゲージ)の二つの軌間が並立することになった。
路線の拡大に伴って、この二つの軌間の並立を危惧する意見が出るようになる。
また南線のバンコクの起点がトンブリー地区のバンコクノイ駅で、この駅はいまのフワランポーン駅と異なり、チャオプラヤー川を隔てた西側の対岸に位置していた。
こうした問題の解消に向けて動いたのが、当時の鉄道局総裁であったカムペーンペット親王だった。
チャオプラヤー川の架橋と南線の延長を計画し、南線をフワランポーン駅と直結する工事を行った。
また北線や東線、東北線といった既に標準軌で敷設させた路線は、メーターゲージへの改軌を実施した。
軌間が統一されることは、交通運輸としての利便性は格段に向上する。
しかし、その反面では国土の防衛上の観点からは大きなリスクを伴う。
隣国から攻められやすくなってしまうのだ。
当時は南のマレー半島を英国が支配し、北の北部インドシナをフランスが支配していた。
タイは独立国家ではあったが、位置的にはフランスと英国の間に挟まれた緩衝地帯だとの声もあった。
だから隣国からの防衛を重要視するのは当然の発想である。
国の独立は絶対に守らなければいけない。
こうした中、隣国と軌間を同じくすることに慎重な意見が出るのは無理からぬ話であった。
しかし、カムペーンペット親王は軌間の不統一は、将来に大きな禍根を残すことになると考えた。
そして、遠い将来は、東南アジア諸国に広がる大きな鉄道網を築き上げていくことを思い描いたのだった。
かくして工事は敢行される。
1920年のことであった。
10年後に改軌工事は完成し、タイ全土は一つの線路で結ばれることとなった。
完成したチャオプラヤー川に架かる橋は「ラーマ六世橋」と名付けられた。

フワランポーン駅

それからおよそ100年。タイの鉄道の状況はどうなったのか。
バンコク首都圏では、地下鉄やBTS、エアポートレールリンクなど新しい鉄道が登場し、市民や観光客の利便性を格段に向上させた。
ところが、従前の国鉄は一世紀が経過しても、旧態依然とした路線が多い。
新たな路線が築かれることも少なく、全路線の9割は未だに単線区間である。
それ故に、運行の遅延も多発して、人気は今ひとつといった感が否めない。
サービスの良い高速バスや近年のLCCの登場は、結果として旅行客の足を奪っていった。
隣国との路線はまだまだ限定的である。
南線の終着駅であるパダンブサールでマレー鉄道に接続している。
また、距離は短いものの、ノーンカーイ駅(タイ) – ターナレーン駅(ラオス)との国際列車も始められたという。
その一方、ミャンマーやカンボジアとを結ぶ線路は、戦争と国家体制の違いから切断されたままで、その後の復旧には至っていない。
国際列車運行の計画はあるものの、その実現までの道のりは長いものになりそうだ。
こうした国境を超える路線が、もっと充実してほしいと思う。
誰もが気楽に安全な国際列車の旅を楽しめる、そんな平和な社会になってほしいと切に願っている。
かつてカムペーンペット親王が思い描いた東南アジア諸国を結ぶ鉄道網の完成を心待ちにしている。

参考文献
柿崎一郎 「王国の鉄路 タイ鉄道の歴史」 (京都大学学術出版会)
小池 滋/青木 栄一/和久田 康雄 「鉄道の世界史」 (悠書館)


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軌間 その3 相互直通運転

相互直通運転の一例をあげると東京メトロ副都心線の例がある。
東京メトロ副都心は、埼玉県和光市の和光市駅から東京都渋谷区の渋谷駅を結ぶ東京地下鉄(東京メトロ)の鉄道路線である。
東京メトロ副都心線は、東京地下鉄(東京メトロ)を含めた鉄道5事業者(東武・西武・東京地下鉄・東急・横浜高速鉄道)による相互直通運転が行われており、埼玉県西部の滑川町・川越市・飯能市・所沢市の各方面から神奈川県横浜市までの広域な鉄道網が形成されている。
和光市駅を介して東武東上線への直通運転を行っている。
また、小竹向原駅から西武有楽町線を経由して西武池袋線飯能駅までの直通運転を行っている。
一方、渋谷駅で東急東横線と、さらに東横線の終点である横浜駅から横浜高速鉄道みなとみらい線に乗り入れ、元町・中華街駅まで直通運転を行っている。
このような直通運転は、日本では大都市の地下鉄が郊外への私鉄路線と直通運転するものが代表的であるが、本格的に異事業者間で直通運転が始まったのは1960年代に入ってからである。
昭和35年(1960年)12月に都営地下鉄浅草線の押上 – 浅草橋間が開業した。
同時に押上駅を介して京成押上線・京成本線と直通運転を開始した。
これは地下鉄と郊外の民間鉄道事業者による初の直通運転となった。
その後都営地下鉄浅草線は、昭和43年(1968年)6月に大門 – 泉岳寺間を開業させる。
同時に泉岳寺駅を介して京浜急行電鉄と直通運転を開始した。

相互直通運転のメリットは、異なる路線へ乗り換えなしで往来を可能にさせたことや乗り換えによる所要時間の減少させたこと、また乗換駅の混雑緩和させたことなどが挙げられる。
鉄道網の利便性が向上されたことによって、郊外の発展にも寄与したことも、相互直通運転がもたらした大きな利点であった。
ちなみに、現在の都営地下鉄浅草線は、従来の京成電鉄及び京浜急行電鉄に加え、北総開発鉄道(現・北総鉄道)、芝山鉄道との直通運転を行っており、千葉県の白井市・印西市・船橋市・成田市・芝山町から都心を経由して、神奈川県逗子市・横須賀市・三浦市にわたる広域の鉄道網が形成されることとなった。
また、東京の空の玄関である羽田空港(京浜急行電鉄)と成田空港(京成電鉄)の双方が直通運転される路線となり、いまや両空港を結ぶ大動脈となっている。
旅行者の立場から見ても、この路線の利用価値は絶大であると言える。
相互直通運転が可能になるためには、当然のことであるが、乗り入れる双方の事業者間の軌間が同一であることが大前提である。
軌間が異なれば、相互直通運転は断念しなければならない。
現在の直通相互運転の大きな発展の背景には、民間鉄道の黎明期に、遠い将来を見据えて軌間の統一を図った先見の明があったからに他ならないのである。

4線直通運転開始記念乗車券
4線直通運転開始記念乗車券
写真は、京浜急行電鉄、都営地下鉄、京成電鉄、北総開発鉄道(現・北総鉄道)の4事業者の相互直通運転開始を記念して発売された記念乗車券(京浜急行電鉄発行)。
軌間同じくすれば、直通運転可能な巨大鉄道網の形成も可能になる。

軌間 その4 改軌そして東南アジアの鉄道網
https://ponce07.com/track-gauge-04/

軌間 その2 弾丸列車計画と新幹線

昭和7年(1932年)ころ、日本から朝鮮半島・中国大陸へ向かう輸送需要は年々急増していた。
その前年(昭和6年)には満州事変が勃発し、翌年(昭和7年)には満州国も成立したためであった。
東京や大阪から満州へ向かう当時の最速ルートは、まず東海道本線・山陽本線で下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山に上陸後、さらに朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満州鉄道(満鉄)を利用するというルートであった。
ところが、その当時すでに東海道本線と山陽本線は輸送力が逼迫した状態であった。
その頃はすでに、四大工業地帯といわれる京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯及び北九州工業地帯が形成されていたことから、人やモノの流れが集中した。
東海道本線と山陽本線の総延長は当時の国鉄線の7%程度に過ぎなかったものの、輸送量は全体の約3割を占めていた。
特に昭和12年(1937年)7月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まると、このままの状態では輸送量の増加に対処しきれなくなるとの恐れがあった。
そこで昭和13年(1938年)に当時の鉄道省は輸送力強化に関する調査研究に着手し、輸送力拡大のための方策が具体的に検討されるようになり、結論として早期に同区間に別線の高規格鉄道を敷くことが必要であるということになった。
国鉄では鉄道開通以来狭軌(1,067mm)を採用しているが、将来的に輸送量の増加が見込まれる東海道本線・山陽本線の別線として、東京~下関間に標準軌(1,435mm)で高速鉄道線を建設するという計画が起こる。
広軌を使用すれば高速運転ができるだけでなく、大陸の鉄道である満鉄や鮮鉄が標準軌を採用していたので、それらとの直通運転が可能になる。
軍事輸送の面からも有利という理由で標準軌が採用されたのである。
また、連絡船を使用する事で将来的には東京とアジアを結ぶ路線の一端を担う計画もその背景にあった。
この高規格鉄道は、当時新聞など世間一般では弾丸のように速い列車であるという形容として「弾丸列車」という語が使われた。
昭和14年に建設が正式に決定されると翌昭和15年には予算案が通過し、工事が開始される。
そして昭和16年には難工事が予想された日本坂トンネルと新丹那トンネルの工事が着工された。
当初は昭和25年の開業を目指して工事が行われたが、後に昭和29年開業に変更される。
しかし、戦争の激化に伴い昭和18年に工事は中止され、その後敗戦を迎えることとなった。

弾丸列車計画自体は実現することはなかったが、戦後の復興と共に鉄道および道路輸送の需要が増大すると、東海道本線の貨客輸送能力は逼迫し、新たに東海道新幹線が計画されることになる。
昭和20年代の国鉄は旧軍出身の技術者を多数獲得し、彼らがその後新幹線計画を進めることになる。
弾丸列車計画時に買収された土地の返還訴訟が起きていたが、この東海道新幹線計画が決定したことを受けて東京~大阪間で取得していた土地に関しては東海道新幹線にて使用されることとなり、また弾丸列車計画において工事が進められていた日本坂トンネル・新丹那トンネルなどは東海道新幹線で使用されることとなった。
弾丸列車計画において設置される予定だった駅は東京から順に横浜・小田原・熱海・沼津・静岡・浜松・豊橋・名古屋・京都・大阪・神戸・姫路・岡山・広島・下関となっていた。
こうしてみると、のちの東海道新幹線・山陽新幹線の停車駅と酷似しているのがよくわかる。
そして昭和34年4月に新幹線建設が起工する。
1,435mm標準軌を使用した本格的な長距離高速鉄道である。
戦時下で軍事色の強い「弾丸列車」計画が、戦後に「新幹線」と形を変え、昭和39年10月に東京オリンピックの開催に合わせて開業することとなった。
しかしそれは同じ国鉄線で在来線1,067 mm、新幹線1,435 mmと二つの軌間が併存することの始まりでもあった。

軌間 その3 相互直通運転
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軌間 その1 「飛び地」の新幹線

九州の博多から鹿児島中央に直通の新幹線が全線開業したのは平成23年(2011年)のこと。
福岡から鹿児島への所要時間が圧倒的に短縮されたばかりでなく、山陽新幹線の乗り入れも実現している。
博多駅 – 鹿児島中央駅間が最短で1時間16分に、博多駅 – 熊本駅間が最短で32分という速さである。
朝の7時に鹿児島を出ても、福岡市内での9時の会議に十分間に合うほどになった。
ところがもう一つのルートである西九州ルート(長崎ルート)の建設は困難な状況になっている。
というのも西九州ルート(長崎ルート)は当初、フリーゲージトレインで博多駅から佐賀県の新鳥栖まで九州新幹線鹿児島ルートを走り、武雄温泉まで在来線を走行、武雄温泉から長崎までは新設する新幹線の線路を通す計画だった。
フリーゲージトレインとは、軌間可変電車とも呼ばれ、これは主に標準軌(1,435 mm)と狭軌(1,067 mm)の両方の線路上を走行することのできる車両で、現在開発の途上にある。
しかし、そのフリーゲージトレインの開発が難航した。
西九州ルート(長崎ルート)向けの車両耐久走行試験は平成26年(2014年)10月から進められたが、車軸付近にひびや摩耗が発見され、試験中断に追い込まれた。
そして、ついに西九州ルート(長崎ルート)でのフリーゲージ計画は断念されるに至った。
しかし武雄温泉から長崎まで新設工事は、標準軌(新幹線の軌間)で工事が既に始まっている。
その結果、武雄温泉駅で乗り換えを必要とする「リレー方式」が採用される結果になってしまった。
直通ではない、いわゆる「飛び地」の新幹線である。
どうしてこのような「飛び地」が出来あがったのだろうか。
それは、言うまでもなく軌間の違いによる。
そもそも、なぜこのように軌間に違いがあるのだろうか。
軌間とは2本のレールの内側の幅のことをいう。
同じJR線でも在来線の1,067 mm、新幹線の1,435 mmと違いがある。
ここで、この軌間の歴史を少しだけ振り返ってみたい。

建設中の九州新幹線西九州ルート(長崎市)
日本で最初に開業した鉄道は明治5年(1872年)のことである。
開業した区間は、新橋駅 – 横浜駅間であった。
その時に採用された軌間は、標準軌 (1,435 mm) より狭い狭軌の1,067 mmだった。
この標準軌の起源は、英国の炭鉱で使われていた鉄道馬車の軌間と言われている。
その軌間が4フィート8.5インチ(1,435 mm)だった。
のちにジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために蒸気機関車を製造した。
その後はこのときに使われた機関車と同じ設計で機関車が作られたことから、英国各地で急速に普及した鉄道は、4フィート8.5インチの軌間が採用されたことになる。
こうして鉄道の普及は4フィート8.5インチの軌間の普及を意味しており、これが標準軌 と呼ばれるようになる。
一方で、狭軌(Narrow gauge)と呼ばれていた1,067mm(3フィート6インチ)のゲージも普及していた。
経済性の面で優位と考えられたからだ。
同じ大英帝国の領土でも、南アフリカやニュージーランドなどでは、この1,067 mmの狭軌が敷かれている。
またマレー半島などではこの1,067 mmの狭軌よりさらに狭いメーターゲージと呼ばれる1,000mmの軌間を採用している地方もあった。
当時の日本の財政状況を考えると、建設コストが高い標準軌の採用は無理があった。
軌間が広いほど大きな列車を速く安定的に走らせることができるが、建設費がかさむ。
特に軌間が大きいほどカーブを大きく取る必要があり、山地の多い日本では標準軌は経費が掛かりすぎてしまう。
車両が大きければ、トンネル掘削費用も大きく変わってくる。
結果的に、狭軌の1,067 mmが日本の鉄道の標準となったものの、その後1,435 mm の標準軌へ軌間を変更しようとするいわゆる改軌論争が何度かあった。
しかし財政難を理由に、1,435 mm軌間への改軌が実現することはなかった。
その一方で都市部の路面電車などでは、1,435 mm軌間を採用する民間会社も現れた。
日本で最初に1,435 mm軌間を採用した民間鉄道は、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄大師線)である。
これは将来を見据えた取り組みとも言えるもので、一説によると国鉄が1,435 mm軌間へ改軌するであろうと見越してのこととも言われている。
結局は国鉄の改軌が行われなかったが、路面電車や電気鉄道、地下鉄では1,435mm軌間が普及した。
こうして、日本の鉄道は、主に1,067mmの狭軌と民間鉄道の一部で採用された1,435mmの標準軌との2軌間が併存することになる。

軌間 その2 弾丸列車計画と新幹線
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唐辛子 พริก その2

タイでは、日本とは比較にならないほどの大量の唐辛子が消費されています。
市場やスーパーマーケットに行けば、その種類が豊富なことがわかります。
また、売っている量も多く、その消費量の多さにも驚かされます。
乾燥した唐辛子のほか、生の唐辛子もあります。
また、น้ำพริกเผา(ナム・プリック・パオ=唐辛子と海老味噌のチリペースト)やพริกน้ำส้ม(プリック・ナム・ソム=唐辛子入り酢)、น้ำจิ้มพริก(ナム・チム・プリック=つけだれのチリソース)といった、唐辛子を使った各種の調味料も数多く売られています。
唐辛子の種類としては、พริกชี้ฟ้า(プリックチーファー)やพริกขี้หนู(プリッキーヌー)が有名なところです。
พริกชี้ฟ้า(プリックチーファー)とは、
พริก = 唐辛子
ชี้ = 指す
ฟ้า = 空
であり、上に向かって実がなることからその名前がついています。
長さが6~7cmの唐辛子で、辛さはそれほど強くはありません。
赤いものはพริกชี้ฟ้าสีแดง 、緑のものはพริกชี้ฟ้าสีเขียว と言います。
また、พริกขี้หนู(プリッキーヌー)は、長さが2~3cmの小粒の唐辛子です。
多くの唐辛子のなかでもこのプリッキーヌーは辛さが強烈です。

พริกขี้หนู(プリッキーヌー)を分解すると
พริก = 唐辛子
ขี้ = 糞、滓
หนู = ネズミ
となり、ネズミの糞の唐辛子という何とも変わったネーミングなのです。
なるほど通常2~3センチ程度の小粒の品種なので、その形状はいかにもネズミの「それ」なのです。
タイ人はこの小粒の唐辛子を好んで使います。
この辛さと香りがタイ人の好みに合っているのでしょう。
飲食店で、つまみなどを頼むと皿の隅にพริกขี้หนู(プリッキーヌー)がついてくることがあります。
これまでもこのブログでいくつかのタイ料理をご紹介いたしました。
(グリーンカレーの作り方 แกงเขียวหวาน https://ponce07.com/green-curry/
なかでもトムヤムクン(スープ)やグリーンカレーなどが有名なところですが、これらの料理にも、このพริกขี้หนู(プリッキーヌー)が多く使われています。
พริกขี้หนู(プリッキーヌー)は小粒で非常に辛い品種で、通常は青いまま使われます。
グリーンカレーなどは、色が薄い緑色の汁で、赤い色が見当たらないので、一見するとそれほど辛くはなさそうに見えますが、実はこれが辛いのです。
けっこうな辛さが後から伝わってくるのです。
このพริกขี้หนู(プリッキーヌー)はพริกน้ำปลา(プリックナンプラー)の原料としても使われます。
น้ำปลาナンプラーに刻んだพริกプリック(唐辛子)とมะนาวマナオ(タイのライム)、ニンニクを加えたこの調味料はタイ料理には欠かせないものです。

昔に覚えた「작은 고추가 맵다」という韓国のことわざを思い出しました。
「小さな唐辛子が辛い」という意味になります。
日本流に言えば、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」といったところでしょう。
あの小さいพริกขี้หนู(プリッキーヌー)に、これほどの辛さが宿っているとは、驚きです。
唐辛子の世界は奥が深いようです。
これからも、「辛い物好き」の一人として、アジアの食文化に多く触れていきたいと思います。


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唐辛子 พริก その1

これからの暑い季節には、辛い料理が無性に食べたくなるものです。
食べた直後は、熱い感覚が口の中に広がりますが、やや遅れて汗が流れます。
この感覚が実に心地良いのです。
発汗は体温を下げる働きがありますので、蒸し暑い東南アジアでは辛い料理、とりわけ唐辛子を多用した料理が好まれているのです。

唐辛子の原産地は中南米と言われています。
メキシコでの歴史は大変古く、紀元前6000年に遡るとも言われています。
この唐辛子が世界各地に広がるのは15世紀以降のことなのです。
それが世界に広まるきっかけとなったのがコロンブスによるアメリカ大陸の到達です。
コロンブスはインドのコショウを求めて大西洋を越え、さらに太平洋も越えてアジアを目指しましたが、その途中アメリカ大陸に到達します。
しかしコロンブスはそこがアメリカ大陸とは知らず「ついに我々はインドにたどり着いた」と思い込んでしまうのです。
アメリカ大陸の先住民族がインディアンと呼ばれたり、カリブ海の島々が西インド諸島と呼ばれたりするようになったのは、こうした理由があったからに他ならないのです。
そしてコロンブスはそこで見かけた赤くて辛い香辛料も「きっとコショウの一種に違いない」と思い込み、ヨーロッパに持ち帰って「Red Pepper(赤いコショウ)」と紹介したのです。
胡椒とは関係が無いにも関わらず「Pepperペッパー」と呼ばれている理由は、こうした背景があったからなのです。
その後、唐辛子は大航海時代の波に乗って瞬く間に世界へと広まっていきます。
唐辛子は、漢字の意味としては、「唐から伝わった辛子」となります。
この「唐」はというその漢字が意味するとおり、南蛮渡来の物ということになります。
記録によりますと日本への初めての伝来は1542年ということになっています。
ポルトガル人の宣教師が、豊後国の大友宗麟に唐辛子の種を献上したのです。
しかし、この唐辛子の味は、当時の日本人の味覚には合わなかったようで、食用としては使われることはありませんでした。
唐辛子は観賞用や足袋の先端に入れるしもやけ止めなどとして使われるに過ぎなかったと言われています。
その後江戸時代になり、寛永期に江戸で漢方薬の研究をしていた中島徳右衛門という人物が、唐辛子に種々の香辛料を配合した「七味唐辛子」を開発します。
これが江戸の町でヒットすることになり、唐辛子は日本で香辛料としての地位を確立することになります。
しかし、日本での唐辛子の位置づけは、それほど大きくはなかったと思われます。
1980年代以降、エスニック料理が浸透し、「激辛ブーム」が起こってからは、料理に唐辛子が多く使われるようになりましたが、それは比較的最近のこととも言えます。
以前は、薬味や香り付けに一味唐辛子や日本特有の七味唐辛子が少量使われる程度であり、辛口の商品に関しても多くのレパートリーが用意されていたわけではなかったのです。
しかしアジアにはインドやタイ、韓国など唐辛子が日常的に使われる国もあります。
小さい子供もこんな辛い物を食べるのか疑問に思う人も多いのですが、こうした国々の子供も最初から辛い物が食べられるわけではありません。
小さい子供の頃から少しずつ唐辛子を食して、徐々に辛い味に慣らしてき、舌や胃腸を刺激に対して強くしているようです。

唐辛子 พริก その2 https://ponce07.com/pepper-2/


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出生 เกิด

前回は、日本語にある独特な表現として、日本人の言霊(ことだま)信仰について書きました。
しかし、このような表現方法、つまり縁起の良くないことを直接的に表現するのを避ける言い方は、他の国でもしばしば見受けられます。
タイ語にも、これによく似た興味深い表現があります。
子の出生に関する表現です。
まずは、以下の2人の女性のダイアログをご一読願います。

A:เพื่อนดิฉันคลอดลูกผู้ชายเมื่อวานนี้ค่ะ
B:จะไปเยี่ยมเพื่อนที่โรงพยาบาลหรือคะ
A:ค่ะ คิดว่าลูกเขาคงจะน่ารักมาก
B:สมัยก่อน คนไทยไม่ชมเด็กว่าน่ารักนะคะ
A:เพราะอะไรคะ
B:เพราะกลัวว่าผีจะเห็นด้วย แล้วจะเอาเด็กไป
A:มิน่าล่ะ เด็กน่ารัก แต่คนไทยบางคนพูดว่าน่าเกลียดน่าชัง ไม่พูดตรงๆว่าเด็กน่ารัก
B:ค่ะ คนสมัยก่อนเรียกชื่อเด็กว่าหมู ว่าแมว เพราะจะหลอกผีว่านี่ไม่ใช่ลูกคนนะ อย่าเอาไปนะ
A:มิน่าล่ะ คนไทยก็เลยมีชื่อเล่นเป็นชื่อสัตว์กันเยอะ
B:แต่สมัยนี้คนไทยไม่เชื่อเรื่องนี้แล้วค่ะ

A:私の友達が昨日男の子を出産しました。
B:病院にお見舞いに行くんですか。
A:ええ。彼女の子はきっととても可愛いと思います。
B:昔は、タイ人は子供のことを可愛いとはほめませんでした。
A:どうしてですか。
B:ピー(精霊、幽霊)がそう思って、連れ去るのを恐れたからです。
A:道理で。可愛いくても、醜くて憎たらしいと言って、素直に可愛いと言わないタイ人もいます。
B:ええ。昔の人は子供の名前を豚とか猫とか呼びました。なぜなら「これは人間の子ではありませんよ。連れて行かないでね」とピーを欺こうとしたからです。
A:道理で。だからタイ人は動物の名前をニックネームにしている人が多いんですね。
B:でも今はタイ人はもうそれは信じていません。

出典:中級タイ語総合読本 タイの社会と文化を読む
著者:斉藤スワニー 三上直光
出版:白水社

ピー(精霊、幽霊)が子供を連れ去るということは、あの世に連れていかれること、つまりは子供が死亡することを意味しています。
この発想は、古代の社会のように、乳幼児の死亡率が高かった頃の名残が色濃く残っているということができます。
現在はタイでも医療水準は相当に高く、死亡率は低くなっていますが、それでもこのような表現が残っているのです。
日本でも古代の社会では、幼少の頃の名前は、悪いイメージを連想させるものがよく使われていたと言います。
あの豊臣秀吉の幼少時の名は「棄丸(すてまる)」であったことは有名な話です。
子供が成長した後になって、正式な名前に改名していたのです。
現代のタイでは、行われることが少なくなったと言いますが、産毛の一部を残して、髷を作り、子供が成長してから(概ね11歳から12歳ころ)これを切り落とす、まげ落としの儀式があります。
髷は魂が宿るところであり、その魂が出ていくと疫病にかかってしまうと考えたので、幼少時には髷を残しておくというわけです。
いずれにしても、こうした伝統文化は、子の健やかな成長を願う両親や親族等の祈りが込められた大切なしきたりだったに違いありません。
我が子の成長を喜ばない親はいません。
このことは、古今東西変わることはないのです。

★今回参照させていただきました「中級タイ語総合読本」は、タイの文化について、平易なタイ文字で書かれている良書で、かつ解説も充実しており、タイ語の勉強に大変参考にさせていただいております。タイ語学習者で、初心者レベルを一定通過したかたは、ぜひお使いになっていただきたい一冊です。


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細やかな日本文化  「言霊(ことだま)」

タイ語の辞書アプリのひとつ「J-Doradic」で日本語の「お開き」について検索してみると、「ปิด (งานเลี้ยง พิธี) =閉会(宴会、式典)」との説明があるのがわかります。
なるほど「お開き=opening」が「終了」を意味するとは…
一見論理的に矛盾しているような表現で、外国人にとっては、理解しがたい部分と言えるでしょう。
それでは、なぜこのような表現方法が生まれたのでしょうか?
その背景についてちょっと考えてみたいと思います。

日本語の表現を語るうえで欠かすことができない特徴のひとつに、日本人は「言霊(ことだま)」を重視する点が挙げられます。
言霊とは、古代からの日本人の持つ考え方の一つで、言葉には不思議な力が宿っているというものです。
そして、自分の望んでいることを現に言葉として発することで、その言葉どおりの結果をもたらす力があり、これが言霊なのです。
わかりやすく言えば、雨が降ってほしい時に「雨よ降れ。」と祈るようなことです。
普通に科学の知識をもった現代人であれば、雨の降る原理も当然に知っていることでしょう。
だから、このような言霊などは、ただの迷信に過ぎないと笑うに違いないでしょう。
しかし、実際のところは、この「言霊」の影響を受けたとしか思えないような表現がいくつも見受けられるのです。
たとえば、結婚披露宴の席でのスピーチには「別れる」「切れる」といった言葉が登場しないことはよく知られています。
それは、「別れる」「切れる」といった言葉から、離婚や離縁といったことが連想されるので、「縁起が悪い」と考えるからにほかなりません。
お通夜やお葬式の場面でも、「重ね重ね」「重ねて」「再び」など、繰り返して起きることを想起させるような言葉も、やはり「縁起が悪い」言葉として避けられているのです。
これも、言霊が強く信じられていたことから生まれた風習といえます。
パーティーや宴会などの席で、会の終了が近づくと「宴もたけなわではございますが、そろそろお開きということで…」などと司会者が言うことでしょう。
冒頭で触れましたが、ここでいう「お開き」とは、もちろん「終了」の意味として使われています。
宴会の席は「おめでたい」場になりますので、やはり「終わる」という言葉は相応しくないと考えるから、「お開き」という言い換えの言葉になっているのです。
私たちは普段の生活のなかで、このような言い換えの言葉を自然に使っているのです。
科学的な知識をある程度持っている現代人であっても、言霊の発想は根強く生きているのです。
このことは、相手の気持ちを察して、不快な感情を与えない配慮とつながっているということができます。
迷信だ、根拠がないと言っても、社会には一定のルールが成立していて、それを守ることは礼儀作法なのです。
こうした配慮や礼儀作法は、長い歴史のから生まれた先人の知恵であり、これからも大いに尊重され、また後世に引き継いでいくことが求められるべきものだと考えます。

英勝寺(鎌倉市)