身近になったアジアンテイストの背景に

タイ政府は22日、新型コロナウイルスワクチンの接種を完了した渡航者について、5月1日から入国時のPCR検査を不要とする方針を決めました。
これにより、入国の規制はほぼなくなりました。
再び、気軽に旅行できる日が近づいてきました。
これまで何度も、規制緩和と規制強化が繰り返されてきましたが、ようやくタイへの渡航とについて、現実味が出てきました。
今度こそは、自由に旅行ができると希望を持ったかたも多いのではないでしょうか。

以前のコラムで、タイ料理の中で、一番好きなものは「ジャスミンライス」と書きました。(ジャスミンライスข้าวหอมมะลิ  https://ponce07.com/khao-hom-mari/)

最近は、アジアの食材が多く輸入されて、近所のスーパーでも頻繁に東南アジアの食材を目にするようになりました。
ナンプラー(魚醤)やカレーペースト、インスタントラーメンなどは、以前からよく見かけてはいましたが、最近では、ジャスミンライスもよく目にするようになりました。
これまで関税障壁の高かった「コメ」であるジャスミンライスも、多く取り扱われるようになったのです。
輸入食材が安価に買えることで有名な「業務スーパー」でも、ジャスミンライスの取り扱いが始まりました。
しかし…
ちょっと高いです。
ちょっとというより、かなり高いと言ってもいいかもしれません。
内容量は1kgで753円(税込、税抜698円)です。
最高品質のジャスミンライスを、気軽にお試しできるはありがたいことですが、これはちょっと高いですね。
現地の価格を知っている者としては。
やはりその背景には、多額の関税が課せられている事情があるからなのでしょう。
財務省の実行関税率表に記載されているコメの関税は、1kg当たり341円とのこと。
ざっくり言ってみれば、およそ半分が税金のようなものです。

タイの米は需要がないとか、日本米こそが一番などと言う人が結構います。
しかし、僕が感じるのはタイ米というものが、あまり理解されていないのではないかということです。
もちろん、僕自身が毎日日本米を口にしていて、その日本米をうまいと感じているところですが、タイ米がうまくないとは決して思いません。
肉にも牛肉や豚肉、鶏肉があるのと同じように、コメにも料理に合った種類のコメがあるのです。
和食には日本米が合いますが、タイカレーやガパオライスなどのタイ料理にあうのは、やはりタイ米なのです。
以前も書いたことではありますが、タイ米は日本の米と違って、粘り気が少なく、水分を吸収しづらいため、カレーなどのような汁物との相性が良いのです。
同じコメであっても、それぞれ別の食べ方があるのです。

もちろん価格面だけをとらえれば、タイ米は日本米の2分の1から3分の1程度なので、ある一定の関税が課されるのは仕方のないことでしょう。
しかし、タイ米と日本米では、その持ち味や用途が異なるので、単純に比較することはできないと思います。
現在の日本では、多くの外国人が定住していることもあって、世界各国の美味しい食材を購入することが可能になっています。
試してみたいと思う人も少なくありません。
こうしたなか、高すぎる関税は消費者の選択の幅を狭めてしまうことになるでしょう。

関税について話題が出たついでに、このことについてもぜひ触れておきます。
高いのはコメだけではありません。
僕が愛してやまないもの。
それはビールです。
タイのブランドビールである「シンハ เบียร์สิงห์ BEER SINGHA」も、スーパーの酒類コーナーで見かけますが、ご覧のとおりその高さに驚きです。
これでは、気軽に手に取るわけにはいきませんね。
これこそ不当な関税障壁と感じるのは僕だけではないでしょう。
いつの日か、タイの地を再び訪れるときが来たら、シンハビールの味を、存分に堪能したいと思います。

 

 


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絵馬の起源

春になりました。
間もなく桜が満開になることと思います。
冒頭の写真は、ある神社で3月20日に撮影したものです。
まだ桜は咲き始めといった感じでした。
神社の境内で目につくのは、絵馬の奉納です。
この神社でも、このようにたくさんの絵馬が奉納されています。
絵馬は、なにかを祈願するときに、神社に奉納するものです。
その多くは絵が描かれた木の板です。
そこには、たくさんの人の願いが記されているのです。

古代、神様は神馬(しんめ)という馬に乗って人間世界にやってくると考えられていました。
そこで、神社では古くから馬を奉納する習わしがありました。
歴代の天皇は祈願の際に、生きた馬を神馬(しんめ)として神社に奉納していました。
水の神様をまつる京都の貴船神社では、雨ごいの祈願のときには黒い馬を、晴れの祈願のときには灰色または赤毛の馬、といったように目的によって異なる毛色の馬が献上されました。
しかし、実際に馬の飼育をするのは、手間がかかるうえに経済的な負担も大きかったので、本物の馬の代わりに、土で作った馬形(うまがた)や、木で作った板立馬(いただてうま)が奉納されるようになりました。
その後この板立馬が、馬を描いた小さな板となり、これが奉納されるようになりました。
これが「絵馬」の始まりです。
時代が進むにつれて、馬に限らずいろいろな縁起の良い画題が描かれるようになりましたが、「絵馬」という呼び名はそのまま残りました。
江戸時代には家内安全や商売繁盛といった身近なお願い事を書く風習が庶民にも広がりました。
すると最初から絵が描かれた小さな絵馬を購入して、これに願い事を書いて神社に奉納するいまのスタイルが確立しました。

僕の住む九州では、福岡県太宰府市の太宰府天満宮が有名です。

https://www.dazaifutenmangu.or.jp/ 太宰府天満宮
https://www.dazaifutenmangu.or.jp/th/ 太宰府天満宮(タイ語版ภาษาไทย)

学問の神として知られる菅原道真公を祀った神社で、受験生が奉納した合格祈願の絵馬がいっぱいあります。
またこの神社の絵馬は、縁起物やお守りとしてもたいへん人気があります。
この絵馬を奉納する習慣が広く外国にも知れ渡ったのでしょう。
最近ではタイ文字で書かれた絵馬も見られるようになりました。



間もなく新年度を迎えます。
四月から進学や就職で、新たな一歩を踏み出すフレッシュマンも多いことと思います。
彼らが希望を持って、新しい社会で大いに活躍できることを心より祈願いたします。

政府が対処すべき最大の問題は何ですか? ปัญหาใหญ่ที่สุดที่รัฐบาลต้องรับมือคือปัญหาอะไร

ในปัจจุบันญี่ปุ่นมีหนี้สินจำนวนมหาศาล ซึ่งมีมากกว่า 150% ของผลิตภัณฑ์มวลรวมในประเทศ(GDP) ประชากรญี่ปุ่นที่สูงวัยมีจำนวนเพิ่มขึ้นอย่างต่อเนื่อง สัดส่วนของประชากรสูงวัยในญี่ปุ่น (อายุ 65 ปีขึ้นไป)มีมากที่สุดในบรรดาประเทศผู้นำทางด้านอุตสาหกรรม แต่ในอีกด้านหนึ่งอัตราการเกิดกลับมีต่ำที่สุด อย่างไรก็ตาม ในการที่จะดูแลกลุ่มผู้สูงอายุเหล่านี้จำเป็นต้องใช้เงินจำนวนมาก แต่ทว่ากลุ่มคนวัยรุ่นกลับมีจำนวนไม่เพียงพอต่อการจ่ายเงินในระบบเงินบำนาญในปัจจุบัน ขณะที่รัฐบาลพยายามจะขึ้นภาษีในอนาคตอันใกล้ แต่กลับมีบางคนกังวลว่าการขึ้นภาษีจะยิ่งทำให้เศรษฐกิจย่ำแย่ลง ในปัจจุบันอาจยังไม่สามารถพูดได้เต็มปากว่าเศรษฐกิจญี่ปุ่นอยู่ในสภาพที่ดี แต่หากไม่เร่งดำเนินมาตรการอย่างใดอย่างหนึ่งโดยเร็วแล้ว ประเทศนี้คงจะถดถอยลงไปอีก

現在日本は巨額の借金を抱えており、その額は国内総生産の150パーセント以上です。日本の人口は高齢化が進んでいます。日本の高齢人口(65歳以上)の割合は先進工業国のなかでも最大、そのいっぽう出生率は最低です。こうした高齢の人々の世話をするには、さらに多くのお金が必要になります。しかし現在の年金制度を支えるには若い人たちが足りません。政府は近い将来に増税をしようとしていますが、増税は経済をさらに悪化させると心配する人もいます。現状では日本経済はまだ好調とは言えず、すぐになんらかの対策を実施しなければ、この国は弱体化してしまうでしょう。

出典:日タイ対訳ニッポン紹介FAQ
作者:Davit A. Thayneデイビット・セイン
タイ語訳:ปิยะนุช วิริเยนะวัตร์
出版:IBCパブリッシング

急速な少子高齢化がもたらす影響は計り知れません。
デイビット・セインさんも、日本のこうした現状について、危機感を示していますが、まったく同感です。
年金制度を例にとって考えてみます。
年金制度というものは、支える側の負担と支えられる側の給付が均衡しているということ、つまり「現役世代の拠出=引退世代の給付」で成り立っているのが基本です。
しかしそれでは給付額がとても足りません。
「支える側」と「支えられる側」の数が圧倒的に違うからにほかなりません。
「現役世代の拠出+公費(税金)=引退世代の給付」とすることで、かろうじて均衡を保っているのです。
「支える側」である勤労者世代を増やそうにも、少子化のため労働者の増加は見込めません。
業種によって偏りはあるものの、現在の日本は労働者が不足しています。
日本の失業率は、OECD主要国の中では最も低水準にあります。
労働の省力化の技術が進んできているとはいえ、社会を支えていく活力を維持していくためには、やはり若者の力が必要なのです。
これからの日本は、さらに少子高齢化が進み、「支える側」の人口が減り、「支えられる側」の人口が増大し、その格差がますます広がっていきます。
若者たちの負担増は避けられません。

また税収を上げるには、国際な競争に勝つ方策が必要になります。
そのためにはこれからの発展を支えていく多くの若者たちが、日本で安心して活躍していけるような社会にしていく必要があります。
日本では外国からの移民の受け入れには反対意見が多いようです。
こうしたなか、2018年に出入国管理及び難民認定法が改正され、外国人の在留資格に「特定技能」が創設されて、一定の技能を持った外国人を受け入れることが制度化されました(施行は2019年4月)。
特定技能は介護、ビルクリーニング、素形材産業、産業機械製造業、電気・電子情報関連産業、建設業、造船・舶用業、自動車整備業、航空業、宿泊業、農業、漁業、飲食料品製造業、外食業の14業種になります。
この分野は慢性的に人手不足であり、専門性を持った即戦力となる外国人を必要としていたのです。
さらに建設業、造船・舶用業の2分野は、条件付きで期間の制限なく日本に滞在できるほか、家族の帯同も可能になりました(特定技能2号)。

日本国内では、急速に進む少子高齢化社会に悲観的な意見が多いのは事実です。
しかしその一方で、日本の高いサービス水準や技術水準に魅力を感じる外国人は少なくありません。
世界的に有名な日本製品のブランドも多く、これらに魅了される人も多いようです。
こうした高い技術を学びたいと考え、日本での就職を希望し、日本語を学んでいる若者も少なくありません。
給料が比較的に高く、福利厚生も充実しているという理由で日本企業に就職したいと考える学生もいます。
これからは、やる気を持った多くの若い外国人を、さらに受け入れていくことが求められると私は考えます。

 


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タイの医療保険制度とその現状について

急なことだが、入院することになってしまった。

ある異常が発覚して、急遽手術を受けなければならなくなってしまった。

仕事ばかりの毎日だったが、急に白い無機的な風景の病室に入れられてしまった。

この原稿は、入院中のベッドの上で書いている。

こういう病室に入って想い出すのは、やはりあの時のことだ。

タイを旅行中に、同行していた自分の父親が危篤状態になったときのことである。

クラビー市内のホテルで親父が倒れたのは、ちょうどいまから6年前の正月元旦のことだった。

この件については、以前このブログでも書いたとおりだ。

(白い道 https://ponce07.com/shiroimichi-prologue/

あとになって知ったことだが、クラビー県には大病院がない。

大きいか小さいかの判断は難しいところではあるが、少なくとも、高水準の総合病院というものはない。

日本語が通じる病院もない。

その日泊っていたホテルのマスターが、街で一番大きいと思われる病院に運んでくれた。

それが、クラビナカリン国際病院(Krabi Nakharin International Hospital)だった。

クラビナカリン国際病院(Krabi Nakharin International Hospital)GoogleMapより

 

父の病状は心臓の手術が必要な重篤な状態だった。

ペースメーカーの埋め込みが必要なほどの状態だった。

クラビーのその病院では対応ができなかった。

そのため、クラビータウンから150キロ以上離れたプーケットに転院し、そこで手術を受けることになったのである。

別の県の公立病院に転院する選択肢もあるにはあったのだが、重篤な状況だったことから、待ち時間の短い私立の病院でないと危険だとの判断があったのだ。

素早く、そして的確な判断をしたクラビーの病院の医師には大変感謝している。

プーケットの病院は、私立の大病院で、難易度の高い手術に迅速に対応していただいた。

そのおかげで、親父は無事に帰国できたことはもちろん、手術後6年が経過したいまでも、何ら支障なく生活を送ることができている。

つくづく幸運だったと改めて思う。

タイの医療水準は非常に高く、日本と同等か、あるいはそれ以上だと思う。

先日、ニュースで知ったことだが、タイ政府は「医療ビザ(Medical Treatment Visa)という新たなビザを新設するという。

政府はメディカルツーリズムをこれからの重要産業としてとらえていて、今回のビザの新設で、リハビリやアンチエイジング、美容整形などの医療サービスを受ける外国人富裕者層をターゲットとした新たな需要の掘り起こしを狙ったものと考えられる。

そのような、ハイレベルな医療サービスを提供できるのは一部の私立病院に限定されている。

 

タイには、日本の社会保険のような民間のサラリーマンの職域保険や共済保険のような公務員の職域保険もあるが、自営業者や農民などサラリーマン以外の者が加入できる、日本の国民健康保険に相当するような公的保険制度は長く存在していなかった。

こういったサラリーマン以外の者は、民間の医療保険に加入するしかなく、低所得者層の多くは、無保険状態のままに置かれていた。

しかし2002年に、国民皆保険を目指した新たな公的な保険制度ができた。

「30バーツ保険」とも呼ばれるこの新たな保険制度によると、患者は予め登録した医療機関で治療を受けることができ、受診や投薬にかかる自己負担は一回につき30バーツまでと定められているという(この公的保険に加入できるのはタイ国籍を持っている者に限られている)。

この制度は、一見すると画期的な制度かもしれない。

この制度によって、多くのタイ国民が医療機関を受診できる機会が増えたのは事実である。

ところが、現実はプラスの側面ばかりではない。

まず、患者の登録する医療機関のほとんどが公立病院である。

そのため、公立病院は常に混雑して、患者は長時間待たされることになる。

急を要する治療でも数週間以上待たされることもあるという。

これでは緊急を要する治療には使えないことになってしまう。

低所得者層であれば、受診の都度支払う自己負担の上限額である30バーツに負担感を持つ者もいるだろう。

しかし現在の医療事情を考慮すれば、一回あたり30バーツ程度では、高度な治療はほとんどできないのではないか。

高度な治療を多用すれば、保険財政はたちまちひっ迫してしまう。

そのため、低所得者層は、公立病院で消極的な治療のみを受ける結果となってしまう。

 

私立の病院であれば、ハイレベルの治療を受けることは可能だ。

しかし、それなりの対価を要求される。当然だろう。

受診に際しては、十分な医療費をカバーできる民間の保険に加入しているかが問題にされる。

保険加入がないのであれば、直ちに保証金の支払いを求められる。

このあたりの事情は、自分で経験したことなのでよくわかる。

親父の入院と手術のときは、クレジットカードで保証金を支払ったので問題はなかったが、支払能力に欠けるとわかれば、すぐに追い出されていただろう。

タイでは高い医療水準がありながらも、公的保険では十分な治療が受けられない。

救急車を呼ぶのも、基本的に有料である。

誰も彼もが、等しくハイレベルの治療を受けることができるわけではない。

そう考えると、タイの社会は日本とは比較にならないほどの格差社会と言うことができるだろう。

 

タイの公的保険は未だ課題が多いと言えるが、より多くの国民の健康のために、充実した制度になってほしいと切に願う。

新型コロナウイルスの再度の蔓延で、タイ旅行への道が、またしても閉ざされてしまった。

本来であれば、その時にお世話になったあのクラビーの病院を訪れて、お礼の気持ちを伝えたいと思っているが、いまはそれができる状況にはない。

いつの日か、以前のようにタイを訪れることのできる日が来たら、その時はクラビーの地をまずは訪れたいと考えている。

 

 


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アーミー・メソッドとドナルド・キーン  その2

青年は、自分を取り巻く世界の嫌なものすべてから逃れるために、日本という美の国の『源氏物語』の世界に没頭していた。

ニューヨーク市で生まれた彼は、成績優秀により「飛び級」を繰り返し、16歳でニューヨークのコロンビア大学文学部に入学していた。

しかし、明るい将来が見えていたかと言えば、決してそうではなかった。

恐れていた現実が近づいている。

世界は戦争に傾いていたのだ。

たまたま書店で手にした英訳の『源氏物語』に心を奪われた。

暗く将来が見えない不安と恐怖心。

『源氏物語』の世界と自分のいる世界を比べていた。

そこには戦争がなかった。

受講していた「日本思想史」の角田柳作先生が、敵国外国人の嫌疑をかけられ、拘束されたこともあった。

からっぽの教室を見て、自分の学生生活が終わろうとしているのを実感した。

銃剣を持って突撃する自分の姿は想像できなかった。

海軍の語学学校で翻訳と通訳の候補生を養成していることを知り、入学を志願した。

 

海軍語学学校での授業が始まった。

授業は週六日、一日四時間で、毎週土曜日に試験があった。

二時間が読解、一時間が会話、一時間が書き取りだった。

さらに翌日の授業に備えて少なくとも四時間は予習が必要だった。

講師は主に日系人が担当していた。

アメリカで生まれ、日本で教育を受け、アメリカに戻ってきた日系アメリカ人たちだった。

彼らは熱意をもって自分の仕事に打ち込んでいた。

彼らは学生たちの日本語の上達を喜んだ。

講師と学生たちとの間に、強いきずなが生まれるのに長い時間はかからなかった。

11か月のプログラムが終了した。

そのとき彼は、印刷された日本語だけでなく、草書も読むことが出来ていた。

手紙や報告書などを日本語で記すことも可能になっていた。

彼は卒業生総代として「告別の辞」を述べていた。

一年前までは一言も話せなかった日本語でである。

 

海軍の語学学校を卒業した彼の最初の赴任地は、真珠湾であった。

そこでの任務は、押収された日本語の文書を翻訳する作業であった。

文書はガダルカナル島で採集されたものだった。

翻訳は、日本軍の残した日課の報告書のようなものが多く、作業は退屈なものだった。

そんななかで目を引いたもの、それは「日記」だった。

多くは、日本兵の死体から抜き取られたものであった。

血痕が付着していて、不快な異臭がした。

しかし、これらの日記は、時に堪えられないほど感動的で、一兵士の最後の日々の苦悩が記録されていた。

はじめは愛国的な常套句で埋められたページも、戦場で自分の最期が近づいているのを感じるにつれ、偽りを書くことはなくなり、「本当の思い」が綴られる。

なかには最後に英文で伝言が記してあるものもあった。

伝言は日記を発見したアメリカ人に宛てたもので、「戦争が終わったらこの日記を家族に届けてほしい」と書かれていた。

日本の地を踏んだことのない彼が、本当の意味で知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだった。

出会ったその時には、すでに死んでいた人たちではあったが。

のちに日本文学史における日記文学の独自性と豊かさを探求した名著である『百代の過客』が書かれることになるが、その原点となったのは、このときの日記の翻訳体験に他ならなかったのである。

 

1945年4月1日、沖縄に上陸する。

洞窟に隠れた民間人が多かった。

彼は洞窟を片端から歩き回り、中に誰か隠れていないか呼びかけた。

日本兵のなかには自爆する者もいた。

民間人が自殺する姿を目の当たりにしたこともあった。

 

多くの日本人捕虜の中に、記憶に残る若い将校がいた。

学徒兵だった。

この若い海軍将校は、敵としてではなく、同じ学徒兵として話がしたいという。

この海軍将校が彼に尋ねる。

このまま自分が生き続けなければならない理由が何かあるだろうかと。

彼は自信を持って答えた。

生きて、新しい日本のために働くように、と。

 

沖縄での軍務は7月まで続く。

終戦の玉音放送はグアムの収容所で日本人捕虜とともに聞いた。

アメリカ海軍の通訳として日本と対峙していた彼の「戦争」が終った。

戦争がきっかけではあったが、日本語という大きな宝物を得た。

この知識を棄てたくないという思いから、彼はコロンビア大学へ戻る。

日本文学の研究を続け、その後念願かない京都に留学することになる。

川端康成や三島由紀夫など日本を代表する作家との交遊を通じて、文学研究を豊かにした。

数多くの日本の作家の翻訳を手掛けたほか、「源氏物語」や「奥の細道」など日本の古典文学を海外に紹介してきた。

その後、コロンビア大学で教鞭を取る傍ら、日米を行き来していたが、東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得した。

被災した人々の忍耐強さを目の当たりにしたのがその理由だという。

 

彼はすでに多くの業績を生み出していた。

外国人の学術研究者として史上初めての文化勲章を受章した。

かつての沖縄戦で日本人の投降を呼びかけていた青年。

その後、日本文学の世界に身を投じ、日本人以上にその研究に没頭し、優れた業績を遺した。

多くの人々に愛された彼が、2019年2月に96年間の生涯を閉じたのは、終の棲家として永住を決めた日本の東京であった。

 

 

参考文献

ドナルド・キーン自伝(中公文庫) ドナルド・キーン著 角地幸男訳

日本語教育能力検定試験 完全攻略ガイド(‎翔泳社)

 

 

アーミー・メソッドとドナルド・キーン  その1

「外国語を学び始めたきっかけは」と聞かれれば、「その国が好きだから」とか「その国でもっと自由に旅行したいから」と答えるかもしれない。

学生のなかには、「学校の勉強や入学試験のために仕方なくさせられているから」という答えもあるかもしれない。

しかし勉強を続けるうちに、「仕方ないから勉強する」といった外発的な動機づけから、学習者の内側からくる動機づけに変化していくこともある。

自発的に沸き起こる知的好奇心から、「面白いから勉強する」「外国の人と友達になりたいから勉強する」という内発的な動機づけへの変化である。

それは平和で自由な社会だからこそ可能なのかもしれない。

もし、学び始めたそのときに「戦争」があったとしたら…

 

近世になり産業革命が興り、大量生産が行われるようになり、経済活動が盛んになる。

経済活動が活発になれば、貿易などを通じて人々の国境を越えた行き来が増え、外国語の必要性が高まる。

こうした背景から、19世紀から20世紀にかけてさまざまな外国語教授法が盛んに研究されるようになった。

古典的な「文法訳読法(Grammar Translation Method)」のような、母国語への翻訳を中心にした教授法から脱却し、「ナチュラル・メソッド(Natural Method自然主義教授法)」や「オーラルメソッド(Oral Method)」といった、直接法による教授法、とりわけ聴解力重視した「話せる外国語」の教授法が開発されたのがこの頃である。

そんな中で、最も成果の上がった学習法として知られているのが、アーミー・メソッド(ASTP(Army Specialized Training Program))であった。

戦争遂行のために、諜報活動が必要になる。

そのために兵士に、敵国の言語を習得させなければならない。

それも、短時間で実践的なレベルまで習得させなければならなかった。

そこで行動主義心理学に基づいた教授法が開発されたのである。

行動主義心理学に基づいた教授法とは、外部からの刺激に反応し、それが習慣化すること、つまり教師が刺激を与え、学習者は条件反射的に学習させられるという教授法であった。

かの有名な「パブロフの犬」の理論のごとく、反射的に外国語が発声できるような、ある種人間性を否定させられるような、過激な学習方法でもあった。

 

まったく余計な話ではあるが、日本では同じ時期に、英語は「敵性語」として扱われ、一切の英語教育が排除されていた。

一方のアメリカでは敵国の言語を積極的に教育し、戦略的に活用しようとしていたのである。

この違いは、「言霊」の思想に強く裏付けられた日本人と、そうではないアメリカ人の差なのかもしれない。

アーミー・メソッドプログラムによる授業は、アメリカ人教官とネイティブスピーカーの教官の分業で行われた。

アメリカ人の教官が、読解、翻訳など言語の構造について母語で教え、また、インフォーマントと呼ばれるネイティブスピーカーの教官行う口頭練習からなる授業であった。

インフォーマントは、モデルとしての発話を示す者のことで、日系人が務めた。

モデルが提示された後、ドリルマスターによる口頭での反復練習を行う。

ネイティブによる口頭練習により多くの時間が割かれ、徹底した暗記と反復練習が行われていた。

行動主義心理学に基づく習慣形成という考えが背景にあったため、ネイティブの言語に触れて、とにかくそれを模倣、暗記することで言語が習得されると考えられていたからであった。

口頭練習を指揮するドリルマスターによる集中的な口頭練習は、「練習」というよりも、「訓練」であったのである。

そして、自動的に話せるようになるまで基本文を徹底的に暗記させられていたのであった。

 

このアーミー・メソッドは、短時間のうちに流暢な話者を養成できたメリットはあるものの、反復練習は単調なものになりがちであるうえ、学習者に過度の緊張をもたらしたのも事実であった。

アーミー・メソッドによって日本語を学んだ学生の中に、その青年がいた。

のちに、日本文学研究者となったドナルド・キーン(Donald Keene)である。

 

アーミー・メソッドとドナルド・キーン その2

https://ponce07.com/astp-donald-keene-2

 

 

ジャスミンライス  ข้าวหอมมะลิ

今月に入って、タイへの入国制限が緩和されました。

ワクチンの接種が済んだら、条件付きではありますが隔離なしの入国ができるようになりました。

ようやく…といった感です。

とはいえ入国後にPCR検査が必要であるとか、帰国した時の自主隔離しなければならないなど、気軽に旅行できるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。

いましばらくは、様子見の姿勢を崩すことはできないのではないかと思います。

来年こそは、以前のように自由に旅行ができることを切に願っています。

そして、かつて歩いたタイの街を思いながら、自宅でタイ料理を楽しんでいます。

多くのタイ料理の中で、一番好きなものは?との質問をしばしば受けます。

僕の答えはきまって、「お米」です。

ちょっと意外な感じがしますが、それほどまでにタイの米が好きなのです。

タイも日本と同じく米を主食としている国です。

タイ語で“米”を表す「カオข้าว」は、日本でいうところの「ごはん」の意味はもちろん、「食事そのもの」という意味にまで幅広く使われています。

このことは日本と同じです。

「กินข้าวแล้วหรือยัง」は「食事は済みましたか」という意味になりますが、これは人と会った時の一般的なあいさつ表現でもあります。

それほどまでに、米の文化が深く根づいているのです。

 

タイの米は、日本の米とは種類は異なりますが、これがなかなかの美味なのです。

なかでもジャスミンライス(香り米)と呼ばれるタイ米は絶品で、この米がなければ最高のタイ料理が完成しないのではとも思ってしまうくらいです。

 

日本の米とタイ米では、そのイネの品種が異なります。

日本の米がジャポニカ種という品種なのに対して、タイ米はインディカ種と呼ばれる品種になります。

世界的に見ると、このインディカ種のほうがメジャーで、世界の米の生産量のおよそ8割がこのインディカ種と言われています。

タイ米(インディカ米)の特徴としては、その長細い形と粘りが少ないのが特徴です。

タイ米を主食とする地域では、炊いた米にカレーなどの汁物をつけて食べたり、チャーハンなどのように野菜や肉、香辛料などと共に炒めて提供されたりすることが多いのです。

カオ・ホム・マリข้าวหอมมะลิをはじめ、いろいろな銘柄の米が売られている。

 

ジャスミンライス(香り米)とは、タイ米の中でも最高級ブランド米として世界で知られている米です。

ジャスミンライスは、タイ語で「カオ・ホム・マリข้าวหอมมะลิ」といいます。

ข้าว=米 หอม=良い香り มะลิ=ジャスミンの意味になります

米に特別な香りをつけているのではなく、品種そのものに豊かな香りがあるのです。

ジャスミンライスは、日本のササニシキやコシヒカリなどのような高級品種のひとつで、他の米とは違って、味や香り、粘りなどが特に素晴らしく、タイ米の中でも最高級品と言われているのです。

一般のタイ米は粘りが弱く香りが少ないのに対して、タイ米の最高級品であるジャスミンライスは、一般のタイ米と比べ、甘味が強く味わいのある米として高い評価を受けています。

実際の炊きたてのジャスミンライスを何もつけずにそのまま口にすると、その特徴がわかります。

日本の米のように強い粘りはありませんが、インディカ種によくある粘り気が全くなく米同士がくっつかないというほどではありません。

軽い粘りがあるといった感じです。

味については、米そのものの味が強烈に主張されることはありませんが、ほんのりとした甘みがあり、シンプルでどんなおかずにも似合いそうなやさしい味わいです。

香りは強く、炊飯器で炊いているときから、独特の香りがキッチンに広がります。

この独特の芳しい香りが食欲をそそることから、ジャスミンライスは世界各国でタイ米の最高級品種として受け入れられているのでしょう。

 

タイ米は日本の米と違って、粘り気が少なく、水分を吸収しづらい特徴を持っているため、カレーなどのような汁物との相性が良いのです。

ジャスミンライスを使ったタイカレーはまさに最高の相性となります。

日本の米でカレーを食べると、元々の粘り気のあることとライスそのものが水分を吸収しやすいため、カレーとライスを混ぜ合わせたときに、ベトベトした食感になってしまう感が否めません。

日本のカレーのようなとろみのないさらさらのタイカレーには、水分が少なくパラパラとした食感のタイ米のほうが相性が良いのです。

粘りや水分量が少ないジャスミンライスは、カレーの旨味を引き立てる最高のパートナーなのです。

 

タイ米の炊き方はいたって簡単です。

日本の米と同様に炊飯器で炊くことができます。

タイ米は日本の米のような糠(ぬか)が少ないので、炊く前に入念に研いでおく必要はありません。

研いでしまうと、ジャスミンライスのいい香りを失うことになります。

米の粒が長いため、割れないように軽く洗っておけば足ります。

炊く前にしばらく水に浸けておく必要もありません。

水に浸けてしまうと、お米が柔らかくなってしまい、ジャスミンライスの特徴であるパラパラした食感がなくなってしまいます。

やさしく水で洗ったあとは、米と水の割合を1:1にし、急速モードでスイッチを入れるだけです。

このジャスミンライスは日本でも購入することができます。

有名なゴールデンフェニックスのジャスミンライスは、コストコや一部の輸入食材専門店などで購入できるほか、通販でも購入できます。

タイカレーやガパオなどのタイ料理を作るときは、併せてこのジャスミンライスをお使いいただくことをおススメします。


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メナムの残照  คู่กรรม

先日、タイの女流作家であるトムヤンティ氏がお亡くなりになりました。

トムヤンティ氏と言えば、思い出されるのは、小説「クーカムคู่กรรม(運命の人)」(邦題「メナムの残照」)ではないでしょうか。

この小説は、第2次世界大戦末期のバンコクを舞台に、日本海軍将校とタイ人女性の悲恋を描いた作品で、タイでは知らない人はいないほどの有名な作品です。

これまでに映画やテレビドラマで何度もリメイクされているほどの秀作です。

小説「クーカム」は日本語にも翻訳され、邦題では「メナムの残照」として、角川文庫から発表されていました。

(メナムแม่น้ำ は川の意味。ここではチャオプラヤ川を指しています。)

残念ながら現在は絶版で、ずっと読みたかったのですが、その機会になかなか巡り合うことができませんでした。

あるとき、当時通っていた図書館でなにげに検索したところ、幸運にも閉架図書にあったことがわかりました。

さっそく借りてきて、その黄色く変色した文庫本を、夢中で読みふけったのを思い出します。

 

2013年版映画の主題歌

MV ฮิเดโกะ (Hideko) Full – Yusuke Namikawa Ost. [คู่กรรม 2013] HD

MV อังศุมาลิน (คู่กรรม) – ณเดชน์ [Official HD]

この作品が描かれた当時の情勢について、少し補足しておきます。

当時の東南アジアは、ビルマとマレー半島をイギリスが、インドシナ半島(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)はフランスが植民地として支配している状況でした。

その狭間に位置するタイは、英仏両国の緩衝地帯という地理的な条件と持ち前の外交手腕により、東南アジアのほとんどが欧米の植民地下にあったのにもかかわらず、独立を保っていた唯一の国でした。

日本の置かれていた状況は、アメリカ、イギリスやオランダを中心とした連合国軍との交渉が決裂してしまいます。

日米開戦後は、日本は南方に進出する道を選びます。

タイ政府は、日本と同盟関係を結んでいました。

その一方で、留学生を中心に「自由タイ運動」が組織され、抗日情報活動が展開されていたのです。

日本軍としては、ビルマやマレー半島への攻撃の兵站基地として、タイへ駐留することは絶対的な条件でした。

時のタイ政府は、独立を守るために、日本軍のタイ駐留を認める選択を取らざるを得なかったのです。

バンコクの中心を流れる大河チャオプラヤ川。

その西側のトンブリー地区に、この作品のヒロインとなるアンスマリンが暮らしていました。

母子家庭でありながら苦学の末に大学に進学したアンスマリン。

母親と祖母の3人で、トンブリーの川のほとりの家でつつましく暮らしていました。

近所に小さな古びた造船所がありました。

市場での噂話が聞こえてきます。

「あの造船所は買収されることになるらしい。」

「なんでも造船所を買収するのは外国人らしい。」

造船所を買収したのは、日本の海軍だったのでした。

その造船所の所長として赴任したのが、この作品のもう一人の主人公である小堀大尉その人でした。

 

この小堀という男からは、軍人にある猛々しさのようなものはあまり感じられません。

この点については軍の司令官であった叔父とは、全く違っていました。

茶道の師範であった母の影響もあり、華道や茶道、料理を好むような男でした。

着任後は率先してタイ語の習得に励むようになります。

また彼は規律やルール重んじて、不公平を嫌う男でもありました。

「我が国とタイ国は同盟関係にあります。したがって、その処遇は平等でなければなりません」と語り、タイとの友好関係を損なわないよう常に努めていたのです。

自分の部下であっても不始末をやらかした者には鉄拳制裁も辞することはありません。

貴重であったマラリヤのワクチンをタイ人に提供したこともありました。

もちろん、軍事力を背景にタイへの駐在を決めた日本軍なのですから、地元民からすれば「所詮侵略者なのだろう」と歓迎されるはずはありません。

しかし小堀のこうした誠実さが、次第に地元の人々に伝わっていき、「あの所長は信用できる」「日本人は好きになれないが、小堀は別」と言わせるまでに至るのです。

 

そしてチャオプラヤに続く運河で、アンスマリンと小堀が運命的な出会いを果たします。

彼女は進軍してきた日本軍への反感を抱きながらも、誠実な小堀に次第にひかれてゆくようになります。

そして二人は恋仲になるのか…?!。

でも、それは簡単なことではなかったのです。

 

なお、作品のなかで小堀がアンスマリンのことを「ヒデコ」と日本式に呼んでいます。

小堀は、アンスマリンの母であるオーンに尋ねます。

「アンスマリン(อังศุมาลิน)とはどういう意味なのですか」

庭に出たオーンは、空を指さし、「ああ、それは『お天道様(พระอาทิตย์)』の意味さ」と答えたのです。

それを聞いた小堀は、「日出子さんですね。ผมเรียกฮิเดโกะ(=ヒデコと呼びますね)」と言い、それから「ヒデコ」と呼ぶようになったのです。

タイ語では普通は太陽のことをอาทิตย์またはพระอาทิตย์と言いますが、古風な言いかたとして、サンスクリット語に由来するอังศุมาลินという言葉も存在するのです。

解説はこのくらいにしておきます。

あとは、見てからのお楽しみ…ということで。

 

 

メナムの残照 Part-1(日本語字幕あり)

https://www.dailymotion.com/video/x55exrf

メナムの残照 Part-2(日本語字幕あり)

https://www.dailymotion.com/video/x55f1er

 

 

このトムヤンティ氏の父は、かつてタイ国の軍人であったかたです。

そこで日本軍との接点があり、日本人の勤勉さを知ることになったそうです。

「小堀」は実在する人物ではありません。

しかしこの誠実な日本人将校の姿は、トムヤンティ氏自身が父から聞いた日本人観をベースに描かれているのです。

 

またアンスマリンの揺れ動く感情は、当時のタイの置かれた状況を表しているとも言えます。

表面上は日本と同盟関係を結んでいるものの、裏では「自由タイ運動」が抗日運動を展開していた状況を表現しているのです。

日本人への反感を捨てきれないながら、誠実な小堀にひかれてゆく。

しかしその一方で、自由タイ運動に身を投じた初恋の人を忘れてはいない。

恋愛小説ではありますが、こうした歴史的な背景を重ね合わせることで、また違った面白さがわかるのかと思います。

この2013年の映画作品は、大物俳優が起用されたこともあり、たいへんな反響であったといいます。

主題歌は、タイ語と日本語の両方が使われるなど、豪華さも際立っています。

作品を見たタイの多くの若者が、日本に対してより興味を持つようになったとも言われています。

このような偉大な作品を残していただきましたトムヤンティ氏に深く感謝申し上げます。

そして改めて御冥福をお祈り申し上げる次第です。

 


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ビンディングペダル   

ビンディングペダルとは、足とペダルを固定させるための専用のペダルのことです。

靴底にビス止めされた「クリート」と呼ばれる樹脂製あるいは金属製の止め具を金具でペダルと足を固定して、人間の脚力を直接ペダルに伝える働きがあります。

一般的に自転車は「ペダルを踏んでペダルを回す」動作になるわけですが、ビンディングペダルは「踏む力」だけでなく、下から上に足を上げる時の「引く力」も、ペダルに伝わります。

つまり、ペダリングの効率を上げるメリットがあります。

フラットペダル(平らな普通のペダル)とスニーカーであれば、「踏む力」のみで自転車を進めていくことになりますが、ビンディングペダルとビンディングシューズの組み合わせなら、「踏む力」と「引く力」2つの力で自転車を進めていくことになるので、ペダリングの効率がいいのです。

長く走れば走るほど、フラットペダルとビンディングペダルでは疲労度が違ってきます。

またペダルに足の裏を固定できるため、常に一定のフォームでペダリングをすることができ、これも効率の良いペダリングに有効です。

またペダルと足がすべらない、踏み外すことがないメリットもあります。

ペダルとシューズがくっついているので、雨でシューズが濡れたときやバランスを崩しかけたときであっても不意にペダルから足が外れることがありません。

そのため、走行中の落車のリスクを回避することができるのです。

ビンディングペダルは足とペダルを固定させるので、危ないというイメージがあるかもしれませんが、こうした落車事故を防いでくれる一面もあるのです。

SPDペダル シマノのPD-M520

 

ビンディングペダルのデメリットとしては、やはり「立ちごけ」のリスクを伴うことです。

立ちごけとは、停車中あるいは停車しようとするときに、足が固定されているので、とっさに足を出すことができず、そのままその場に倒れてしまうことを言います。

停止するときにシューズがペダルから外れず転倒するケースや、停車時に片足のビンディングを外さずにいたらバランスを崩して転倒するケースがよくあります。

ビンディングペダルを導入したら、公道以外の場所で、はめ外しの練習をする必要があります。

また、赤信号などで停車するときは早めにペダルを外しておくことを意識すれば立ちごけの可能性を減らすことができます。

 

ビンディングペダルの種類は、おもに2つの種類に分けられます。

SPDとSPD-SLの2種類です。

これらはいずれも大手メーカーのシマノのビンディングペダルで、この2種類が国内のメジャーなモデルということができます。

SPD-SLは3本のネジで固定されるクリートが使われており、シューズとペダルとの設置面が広く、踏みこむ力がペダルに効率よく伝わります。

3本のネジでしっかりと固定されるため、シューズの着脱は固めになります。

またSPD-SL用のビンディングシューズは、靴底に出っ張る形でクリート(ペダルと固定させる止め具)がついています。

自転車を降りて歩くときは、この出っ張ったクリートが干渉するので、つま先を持ち上げた状態で歩くことになり、歩きにくいうえに滑りやすいという欠点があります。

走行中はいいのですが、自転車をいったん降りてしまうと、歩きにくく使いづらくなってしまうのです。

SPD-SLは、走ることだけを考えたロードレーサー向けのペダルということができます。

一方のSPDペダル用のビンディングシューズは、2本のネジで固定される小さい金属製のクリートが使われており、クリートは靴底に隠れるような構造になっているので、歩行がしやすいのが特徴です。

固定する力はSPD-SLより劣りますが、容易に脱着ができるので、街乗りのように付け外しの多い場面に適していると言えます。

SPD用シューズのクリート

 

また、シューズの特徴も両者では大きく異なります。

SPD-SLのシューズは、レーシーなデザインや、力が良く伝わる硬くて薄いカーボン素材の靴底のモデルが多くなります。

SPDはマウンテンバイク用や、タウンカジュアルにも使えるデザインのシューズもあり、靴底はやや厚みがあり、SPD-SLのように歩行には向いていないということはありません。

以上のメリットとデメリットを総合的に勘案すると、クロスバイクで気楽に街乗りを楽しむ志向のライダーにお勧めのビンディングペダルは、「SPD」ペダルと呼ばれる規格のペダルになると思います。

SPD用のシューズ 見た目は普通の運動靴

 

僕が導入したビンディングペダルは、SPDです。

シマノの「PD-M520」を選択しました。

https://bike.shimano.com/ja-JP/product/component/deore-m6000/PD-M520.html

マウンテンバイク用のビンディングペダルですが、コンパクトなうえに両面とも使えるタイプ(シューズの固定は両面でできる)であり、使い勝手は非常に良いと思います。

SPDであれば、クリートの出っ張りを気にして歩きにくいということもありませんので、自転車を降りてちょっとした買い物や食事、観光などを楽しむこともできます。

クリートのはめ外しにもすぐに慣れましたので、立ちごけの経験はいまのところありません。

 

クロスバイク愛好者で、フラットペダルをお使いのみなさま。

ビンディングペダルの導入を検討されてみてはいかかでしょうか。

効率の良いペダリングは思いのほか快適ですよ!

 

 

冒険のススメ แบ็คแพ็คเกอร์  バックパッカーとして旅を続けるための要件とは

 

新型コロナウイルスの勢いは未だ収まる気配はなく、海外渡航は事実上不可能な状態が続いています。

僕が大学生の頃は、バックパッカーとしてアジアのいたるところに一人で気ままな旅をしていました。

そしてその時の数多くの経験が、現在の自分を形成していると思っています。

それを考えるといまの大学生は、そのような「冒険」をする機会を奪われ、残念でなりません

このコロナ禍が過ぎて、自由な海外旅行が再開されたら、若い世代のかたには是非とも旅という名の「冒険」に挑戦していただきたいと思います。

さて、ここで旅をするうえで、考慮していただきたい要件について4点ほどお伝えしたいと思います。

1 できれば一人で行く

海外での旅となれば、危険はいつもついて回ります。

日本と比較すると治安の良いとは言えない国や地域が圧倒的に多いのです。

一人旅など危険極まりないと考える方も多くいらっしゃるかと思います。

それでも、僕は一人旅という「冒険」をおススメします。

いざ旅に出れば、泊る宿屋や食事をする飯屋を探すのも、移動するための交通機関の手配なども、すべては自分自身でこなしていかなければなりません。

これが、自分の行動力を鍛えるいいチャンスなのです。

と同時にこうした行動を重ねることで、失敗しない方法やリスクを避ける技術が身に付くのです。

例えば、仲の良いA君とB君の二人組で旅に出たとします。

もしA君が語学力に優れていれば、交渉事の担当はすべてA君に任せられてしまいます。

これではB君はA君に頼るばかりで行動力を鍛えることはできません。

語学力ばかりではありません。

仲の良いCさんとDさんの二人組がいます。

積極的で行動的なCさんと控えめで交渉事を苦手とするDさん。

このようなケースでは交渉事の担当はCさんに偏ってしまいます。

どちらかが、積極的で行動的な性格であれば、交渉事の担当は一方偏ってしまい、他方は何もしないまま終わってしまいます。

これでは、お互い不平不満が出て、長い旅の継続は難しくなってしまいます。

価値観の異なる者同士が長期間一緒に旅を続けるのは、時として苦痛なときもあります。

行きたいところの好みや食事の好みなど、意見が分かれるのが常なのです。

その点、一人旅であれば、誰に気を使うことなく気ままに自由に行動できるのです。

なお、ホテルなどに宿泊するときに、一人よりも二人でシェアしたほうが安上がりになるという意見もあります。

経済的な側面を考えれば、確かにそれは一理あります。

でも、あまり心配には及びません。

これは実際に旅に出てみればわかることですが、バックパッカーの集まるようなところには、同じように一人旅をしている人が何人かいるものです。

日本語の分かる者同士であれば、気楽に情報交換もできます。

その中で気の合った者がいれば、相部屋を提案して、宿代を割り勘にすればいいのです。

2 できれば発展途上国へ

渡航先として先進国を選ぶこと自体は、決して反対するわけではありません。

しかし、先進国であれば、何もかもが便利過ぎることも多く、「冒険」としての要素が低くなってしまいます。

その点発展途上国となれば、移動や宿泊などの設備が必ずしも快適であるとは限りません。

時には空調設備のない列車や木賃宿を利用しなければならないこともあります。

時には清潔感に難のある交通機関や宿泊先に遭遇することもあります。

英語も通じないような地方都市もあります。

不便と言えば不便ですが、こういう所こそ、行動力が鍛えられるので、かえって旅のし甲斐があるとも言えるのです。

言葉もわからない中で、戸惑いながらもフワランポーン駅でバンコクからチェンマイまでの切符を買ったこと。

その夜行列車の中の風景は今でも深く記憶に残っています。

ネパールのポカラからインドのヴァーラーナシーまでの1泊2日のバスの旅は、かなり強烈でした。

車内はひどく混雑しているうえに道は悪路で揺れは酷く、途中の飯屋では粗末な食事にありつくのがやっとでした。

途中の木賃宿で蚊の羽音に悩まされながら一晩を過ごしたことなども記憶に残っているのです。

こうした苦労話もいまとなっては笑い話のネタになっています。

先進国の一流ホテルに泊まって、一流のレストランで極上のディナーを楽しむのもいいでしょう。

しかしそれは日本にいるときと、大した違いのない経験になってしまいます。

だとしたら、その旅行の思い出は後々までに永く記憶に残るのかどうか…

せっかくの旅なのです。

後々まで、深く記憶に残るような貴重な体験をしていただきたいと思います。

3 予約は不要

パッケージツアーという旅行商品があります。

宿泊先から、観光名所や食事処、土産物屋まで行き先のスケジュールが細かく決められて、旅行者はコンダクターに従って行動すればいいようなものです。

僕はこのようなパッケージツアーを利用したことはありません。

というより利用したいとも思いません。

旅の醍醐味は「冒険」を感じることです。

先ほども書きましたが、旅先では泊る宿屋や食事をする飯屋を探すのも、移動するための交通機関の手配なども、すべては自分自身でこなしていくものなのです。

こうした経験が、自分の行動力を鍛えていくものなのです。

他人の指示通りの旅行などは、本当の意味での旅とは言えません。

僕が初めてタイを訪れたときは、事前に渡航先での交通機関の手配やホテルの予約などはしていませんでした。

持って行ったのは2月20日に出国し、3月30日に帰国するバンコク行きの往復航空券、それといくらかの旅行用小切手と現金のみでした。

泊り先などは、その場で空いたゲストハウスを探しては、その場で決めるとういう行き当たりばったりのパターンでした。

今でこそAgodaやTrip.comなどの予約サイトがありますが、ゲストハウスのような安宿では、そもそも予約という概念に乏しく、当日部屋が空いていれば泊れるというおおらかなやりかただったのです。

一人であれば何とかなります。

仮にそのゲストハウスが満室であっても、たいていは近隣に同じようなクラスの安宿があるので、心配ありません。

これまで宿泊先がなくて困ったということはありませんでした。

何かのイベントの開催時期だとかピークシーズンでもない限り、事前に宿泊先を予約しておく必要はありません。

4 現地の食文化に親しもう

僕が海外に旅行するときは、日本料理屋に行くことはありません。

地元の食文化に親しみたいので、食事はもっぱらローカルフード(現地食)です。

確かに、ローカルフードとなれば、どんな材料が使われているのか、どんな味付けなのか見当もつかないことが多々あります。

注文の仕方がわからないことも多いです。

アジアの安食堂の店先で得体のしれないおかずを指さして、「試してみる」こともよくあります。

強烈に辛かったり、油っこかったり、塩辛かったり….

しかし僕はあえてローカルフードを選び、またそれを楽しんでいます。

食はその地域の文化を最も反映したものだと言われています。

食材や香辛料などの使われ方には、その土地の文化が色濃く表れているのです。

例えばタイは世界でも有数な米どころです。

一か所の水田で年に2回の米の収穫が可能で、所によっては3回も可能です。

しかしその米もただ炊いて食べるだけでは、さすがに飽きがきます。

そこで、炊いた米を炒めたり、煮たりするなど調理方法に様々な工夫がなされます。

また、米を粉にして麺(いわゆるビーフン)にする方法も生まれています。

その麺も日本のそうめんのような極細麺から、幅がきしめんの2倍はありそうな極太麺まで様々な太さがあります。

麺の食べ方も、スープの有無あるいはスープの種類、具材や味付けの違いなど実に様々バリエーションがあります。

その世界はかなり奥が深く、たいへん興味をそそります。

ところが旅行者の中には、タイの料理はすべてが激辛なのだろうという先入観にとらわれて、ローカルフードにまったく箸を出そうとしない者もいます。

そして彼らは、日本料理屋やファストフード店に走ることになります。

実にもったいないと思います。

ここはひとつ「冒険」して、その土地の文化を舌で感じてほしいものです。

いかがでしょうか。

これらは僕のバックパッカーの経験としての推奨事項です。

これがいいのか、そうでないのかの判断は各々に委ねます。

その点を熟考のうえ、参考にしていただければと思います。

それでは…よき旅を!


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