その国に行ったらその国のものを食べる

以前のこと。
フィリピンのボホール島に旅行に行ったときのことである。
現地のリバークルーズに参加したことがあった。
船は浅い大きな河をゆっくり進む。
時折岸に立ち寄る。
ここでは保護されているという希少動物であるメガネザルを見ることができる。
緑は深くて濃く、熱帯の密林が続いている。
日本ではお目にかかれない、とても珍しい風景だ。

船では食事の提供がある。
といってもビュッフェスタイルで、客はテーブルに置かれた大皿から、好きなものを取っていくスタイルだ。
串刺しの鶏肉は、細くていかにも貧弱だった。
地元の野菜を使っているのか、炒め物やスープの類があったが、そのどれもが淡泊で、しかも冷めていた。
正直言ってあまりおいしくはなかった。
しかし、これが現地の食文化なのだろうと思い、少しずつ試しに箸をつけていった。
安くはなかったがビールも注文し、地元の料理を楽しんだ。
ゆるやかな南洋の、夏の一日を楽しんだ。

船に乗り合わせた、他の多くの客は韓国人だった。
韓国からのツアー客だろう。
みな年末の休暇を、この南国で楽しんでいる。
ところが彼らを見ていて、あることに気がついた。
彼らのほとんどが、船内に用意された食事に手をつけていなかったのだ。
持ち込んだキムチなどのおかずを肴に、焼酎をあおっている。
誰もが、韓国式のカップラーメンを食べている。
船内の従業員がせわしく動いているのは、料理の提供のためではない。
ラーメンを作るためのポットの熱湯の補充のためだ。
彼らの休暇の楽しい団らんのひとときに水を差すつもりは毛頭ないが、どことなく違和感を覚えていた。
たしかに、その船内で提供された食事は、けっして褒められるレベルのものではない。
しかし、外国に旅行に来た以上は、その国の食文化に親しみたいと考えている僕からすれば、彼らの行動は実にもったいない気がした。
そして残念にさえ感じた。

ツアーが終わり船から降りたときに、ふとあのエピソードを想い出した。
2003年10月にバンコクで開催されたAPECアジア太平洋経済協力会議のエピソードである。
歓迎晩餐会が開かれたタイの高級ホテル、マンダリンオリエンタルでの出来事だ。
ホテル側は、各国の首脳から晩餐会のメニューのリクエストを聞いている。
欧米諸国の首脳からは西洋料理のリクエストがあり、中国や華僑系の首脳からは中華料理のリクエストが来る。
このような外国人の集まる高級ホテルでは、西洋料理と中華料理が定番なのだ。
ところが、その席にいた当時の日本の首相である小泉純一郎氏のリクエストは意外なものであった。
小泉氏は言った。
「美味しいトムヤムクンをください。あまり辛くしないでね」と。
トムヤムクン(ต้มยำกุ้ง)とは、タイのスープ料理のひとつ。
タイの家庭料理のひとつではあるものの、辛みや酸味、甘みやハーブの香りなど、多彩で複雑な味の織り成す濃厚なスープは、世界的にも有名なスープのひとつとされている。

他国の首脳から「知っている料理を挙げただけだろう」と揶揄された小泉氏ではあるが、「その国に行ったらその国のものを食べる。それが一番良いことだ」と自らの持論を展開した。
そして、「せっかくタイに来たのだから、タイでもっとも有名な料理を味わわないのはもったいないことだ」と切り返した。

小泉氏が晩餐会の席でタイ料理をリクエストした件は、地元タイのメディアでも大いに報じられたという。
一堂に集まった各国の首脳のなかで、タイ料理をリクエストしたのは小泉氏を除いて、誰一人としていなかった。
他の首脳たちは、みな自分の国の食事を注文している。
その姿は、どこに行っても自国の流儀を押し通す姿勢にさえ見える。
ところが、彼だけは違った。
訪問先の国の料理を注文した。
その国の文化を尊重する姿勢を見せたのだ。
ネット上では「私たちの国の料理を選んでくれてありがとう」「我が国の文化を尊重してくれた」「日本の首相は謙虚で素晴らしい」と、小泉氏を称賛する声が上がっていたという。

「その国に行ったらその国のものを食べる」
一見すると、些細で単純なことのようにも思える。
しかし食というものは、まぎれもなく文化のひとつである。
その国の食を味わうことは、その国の文化を尊重する第一歩にほかならない。
訪問した国の文化を尊重しない者が、その国の民に歓迎されないことは明らかなのである。

言語もしかり。
タイを訪れる旅行者は、ぜひ次の二つの言葉を覚えていってほしい。
「อร่อย(a-roi=おいしい)」
「ขอบคุณ(khop-khun=ありがとう)」
美味しいタイ料理を満喫したあとは、タイ人に対して使ってみてほしい。
この二つの言葉は、タイ料理の良さをさらに引き立てる強力なスパイスになってくれることだろう。

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