砂糖がもたらした光と影(その3)甘い誘惑が日本人の体を蝕むリスクとは

砂糖はその甘さのため、多くの人々を虜にしてきたと言われています。
一度口にしたらその魅力に取り憑かれ、また欲しくなってしまう性質を持っているのです。
もちろん砂糖は高級品で、庶民が口にするのは特別な機会に限られていましたが、贈答品として徐々に普及していきます。
時代が進むにつれて、その「甘さ」を楽しむ上級武士や裕福な商人なども増えていきます。
例えば、徳川家十四代将軍の徳川家茂は、極度の甘党で、羊羹・金平糖・カステラなどを好みました。
死後の頭蓋骨調査では、残存していた歯の31本中30本が虫歯だったことがわかっています。
家茂は極端な偏食と虫歯の影響で栄養摂取が困難となったことが原因で、脚気を発症し、わずか21歳で死去したとされています。
「甘いものを食べたら歯磨きをしないと虫歯になる」ということは現在では常識です。
口腔内の細菌が砂糖を分解し、酸を生成して歯を溶かしていくからです。
ところが当時の人々はそのようなことを知りません。
歯磨きの習慣がなかったことから、上流階級ほど虫歯率が高かったと推測されます。

砂糖の摂取による健康リスクは虫歯だけにとどまりません。
過剰な糖分摂取は血糖値の急上昇を招き、インスリン抵抗性を引き起こし、糖尿病や肥満の原因になります。
また、砂糖中心の食生活は、ビタミン・ミネラル不足を招き、脚気や骨粗鬆症の原因にもつながります。
さらに砂糖は脳の報酬系を刺激し、一種の中毒性を持つとされ、過食や情緒不安定の要因になるということも言われています。

時代はさらに進み、砂糖の大量消費の時代が訪れます。
第二次世界大戦後に、日本はGHQの食糧支援を受け、それまであまり消費してこなかった、小麦・砂糖類・植物油・乳製品などが食卓に登場することになります。
そしてこれらが学校給食に導入され、また家庭料理にも浸透していきます。
これにより、コメ中心の伝統的な食生活が崩れ、脂質・糖質過多の欧米型食生活へと移ることとなります。
その結果、糖尿病・高脂血症・高血圧・肥満などの生活習慣病が急増し、それは若年層にも広がっています。

砂糖の過剰摂取が糖尿病を引き起こすメカニズムは次のような過程になります。
砂糖(特に精製された白砂糖や果糖)は消化吸収が早く、食後すぐに血糖値が急上昇します。
急上昇した血糖値を下げるために、膵臓からインスリンが大量に分泌されます。
長期的に高血糖状態が続くと、細胞がインスリンに反応しにくくなり、「インスリン抵抗性」が生じます。
インスリンが効きにくくなることで、血糖値が慢性的に高くなり、血糖のコントロールができなくなり、このことが原因で糖尿病(2型糖尿病)が発症することになります。
この流れは、砂糖の摂取量が多い現代の食生活において非常に起こりやすいものです。
特に清涼飲料水や加工食品に含まれる「隠れ糖分」がリスクを高めています。

砂糖の消費量の増加に比例するように、2型糖尿病をはじめとする生活習慣病が確実に増えています。
いまや日本ではおよそ2,000万人の糖尿病患者、またはその予備軍がいるものと推測されています。
もちろんこうした糖尿病患者の増加要因としては、高齢化や肥満率の上昇、運動習慣の減少や生活時間の変化など複数の要因が重なった結果と考えられています。
しかしながら、おおむね日本人の5人から6人に1人が、こうした糖尿病患者または糖尿病患者予備軍という状況の背後には、砂糖類の過剰摂取による要因が大きいと推測されます。
このような事態になった要因としては、食生活の変化が大きいと考えるのはきわめて自然なながれではないでしょうか。
糖尿病は腎不全、網膜症、心血管疾患など重大な合併症を引き起こす可能性があるため、予防と早期対策が極めて重要です。
食生活の欧米化による生活習慣病の増加は深刻な課題であり、今後は「日本型食生活」への回帰が求められます。
野菜や海藻、魚、豆類をバランスよく取り入れ、過剰な糖質・脂質を控え、適切な量の主食を選ぶといった、伝統的和食の持つ良い要素は、健康的な食生活に役立ちます。
低脂肪・低糖質・高食物繊維な食事は、生活習慣病予防に効果的と考えられるからです。
伝統的な食文化に回帰し、砂糖類の摂取を抑制していく対策が求められると考えます。

歯科医師の吉野敏明氏は、このような食生活の変化に起因する生活習慣病の急増に警鐘を鳴らし、「子どもの頃に甘いものの中毒になると、大人になってから治すのは非常に困難。砂糖や甘いものを子どもに与えることは百害あって一利なし」とし、また「子どもに規範を示すためには親が甘いものを食べてはいけない」と警告しています。

砂糖が我が国に流入したことで、さまざま菓子が生まれるなど、豊かな食文化が形成されたことは文化的にはたいへん興味深い事実です。
しかし、その背景には奄美諸島にあった過酷極まる史実も存在していたのです。
また、砂糖の持つ「甘い誘惑」は、いまなお人々の健康を蝕んでいることを忘れてはなりません。
甘い話には罠があります。
砂糖類の取りすぎには十分なご注意を…

 

参考文献
「シュガーロード」(長崎新聞新書) 明坂 英二著
「奄美の債務奴隷ヤンチュ」(南方新社) 名越 護著
「四毒抜きのすすめ」(徳間書店) 吉野 敏明著

 

砂糖がもたらした光と影(その2)甘味の陰に隠れた黒糖と奄美群島の悲劇

江戸時代の初めの頃は、砂糖は薬として扱われるほどの高級品で、庶民にはほとんど手が届きませんでした。
和菓子に砂糖が使われるようになったのは、一部の大名や富裕商人の贅沢品としてであり、庶民が口にするのは祭礼や特別な機会に限られていました。
砂糖はポルトガルやオランダ、中国から輸入されたものですが、その後別のルートが生まれます。
奄美群島から黒糖(黒砂糖)が流入したのです。
奄美群島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島など)は、サトウキビ栽培に最適な気候と土壌を持ち、糖度が高く、香り豊かな黒糖が生産されます。
奄美群島産の黒糖は、ミネラルを含む天然の甘味料で、白砂糖にはないコクと深みがあることから、京都をはじめとする和菓子職人にたいへん重宝されています。
和菓子職人は、こしあんやすり蜜、練り切りなどに黒糖を使うことで、甘さに奥行きを持たせる技法を用います。
奄美の黒糖は繊細な甘みが求められる和菓子に最適とされ、伝統的な製法と相性が良いのです。

しかしこうした奄美の黒糖は、島民の犠牲によってもたらされたものなのです。
薩摩藩は1609年3月に奄美群島に、4月には琉球王国に侵攻し、那覇と首里へ攻め入り、尚寧王は捕らえられることになります。
同年8月に琉球の処分が決まると、奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島は、琉球王国から分割し、薩摩藩の支配下に入ります。
形式的には琉球王国の統治が続けられましたが、事実上は薩摩藩の直轄地となったのです。
薩摩藩は本土から代官を派遣して代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置して統治を進めました。
薩摩藩による統治の初期では、米作が奨励されますが、このころから生産されるようになっていたサトウキビ栽培に薩摩は注目することになります。
というのも、黒糖は大坂などの日本国内で高価で取引されるようになっていたからです。
その後、薩摩藩は奄美群島で島民にサトウキビ栽培と黒糖生産を強制しました。
食料となるサツマイモ畑をサトウキビ畑に変えられ、島民は食料を確保する代わりに黒糖を年貢として納めさせられました。
薩摩藩が黒糖を独占し、島民間の売買を禁じ、これに違反した場合は死罪とされました。
黒糖は藩が安く買い上げ、島民はサトウキビや黒糖を口にすることすら禁じられ、違反者には鞭打ちや死罪などの厳罰が科されました。
「黍横目(きびよこめ)」と呼ばれる役人が監視し、サトウキビ畑の管理を徹底していました。
島民は日用品を黒糖で購入するなど、貨幣経済からも排除され、生活は困窮していきます。
年貢を納められない者は「家人(ヤンチュ)」と呼ばれる奴隷的身分に落ちることもありました。
薩摩藩による厳しい黒糖政策によって多額の借金を負い、返済できなくなった農民が、その身を主である豪農に売った「債務奴隷」が発生したのです。
さらには島内ではコメやイモなどの保存食の生産が制限されたため、島民の生活は困窮しました。
サトウキビ中心の栽培が強制されたため、ひとたび台風などの災害で作物の不作が起こると保存食は底をつき、飢餓状態に陥ります。
飢饉の時は草の根や海藻などしか口にすることはできない状態であり、ソテツの実を毒抜きしたり、幹からでん粉(サゴの一種)をとって粥などに加工し食用とすることもあったといいます。
これが「黒糖地獄」と呼ばれる理由です。
とりわけ飢餓の著しかった徳之島では、耐えかねた島民は奄美大島に渡ります。
しかし奄美大島でも上納の黒糖を納めることができない農民が少なくなく、暮らしぶりは徳之島と大差なかったのです。
彼らはやがて生きていくために、豪農の債務奴隷であるヤンチュに身を落としていくことになります。
明治初期には、奄美大島の総人口のおよそ2割から3割がヤンチュであったといわれています。

黒糖は薩摩藩の財政再建の柱であり、特に調所広郷の改革以降、黒糖の管理体制が強化されました。
薩摩藩は黒糖を江戸幕府や大坂の商人に専売することで莫大な富を得ます。
1830年代には薩摩藩の砂糖出荷量は全国の約半数を占めるほどで、財政を大きく潤しました。
こうした薩摩藩の圧政は1879年に明治政府が奄美群島を編入するまで続きました。
この黒糖による収益は、幕末の倒幕運動の資金源にもなったとされ、薩摩藩が明治維新の原動力となる背景の一つと言えます。
薩摩・長州・土佐・肥前といった明治維新の雄藩の筆頭に挙げられる薩摩藩ですが、この活躍の背景には、奄美の島民の血と汗と涙があったのです。
このことは決して忘れてはいけない史実なのです。

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砂糖がもたらした光と影(その1)シュガーロードが育んだ日本の菓子文化の歴史と魅力

江戸時代には、さまざまな交通が整備され、なかでも東海道や中山道をはじめとする五街道は有名です。
五街道以外にも、脇街道と呼ばれた主要道路がいくつかありました。
長崎街道もそのひとつです。
長崎街道は肥前国長崎(現在の長崎市)から豊前国小倉(現在の北九州市小倉北区)を結ぶ約57里(約228km)を結ぶ街道で、途中には25の宿場が置かれていました。
長崎と小倉をできるだけ最短距離で結ぶため直線状に整備されたことから、山を越える道程が多い、険しい街道でした。
しかし街道は九州諸大名の参勤交代のほか、長崎奉行や西国筋郡代の交代、さらにはオランダ人や中国人の江戸参府などさまざまな人で賑わい、また西洋や中国からもたらされた交易品や献上品の運搬にも用いられました。
この長崎街道が「シュガーロード」と呼ばれるようになったのは、海外からの貿易によって長崎港を通じて砂糖が輸入されたことによります。
日本に最初に来航した西洋の国であるポルトガル、そしてポルトガルとの交易が禁じられた後はオランダと中国から、砂糖や南蛮菓子が大量に輸入されました。
西洋や中国からもたらされた砂糖や南蛮菓子は、この街道を通じて広まり、日本の菓子文化に大きな影響を与えました。
街道沿いには塩田津(佐賀県)など、砂糖問屋や菓子屋が軒を連ねた宿場町が残っているほか、各地で個性豊かな郷土菓子が作られており、多くの人々に親しまれています。
「シュガーロード」という呼称は、シルクロードになぞらえて名付けられた愛称で、砂糖文化の道を象徴的に表したものです。

出典:シュガーロード連絡協議会


1571年に長崎港が開港され、ポルトガルとの貿易が始まりました。
これにより砂糖が本格的に日本へ流入することになります。
当時、砂糖は高級品であり、薬としても珍重されていましたが、次第に食文化の中心へと変化します。
長崎に陸揚げされた砂糖は、幕府の貿易機関である長崎会所がすべてを買い取り、国内の商人に売り渡され、おもに大坂に運ばれることになります。
しかし、すべての砂糖が大坂などに運ばれたかというと決してそうではありませんでした。
長崎の町には正規の貿易ルートとは別の、さまざまな形で砂糖が出回ることになります。
オランダ商館員や中国人商人たちのなかには、花街である丸山の遊女に砂糖を贈る者がいました。
こうした砂糖は、「貰(もらい)砂糖」と呼ばれていました。
また、「盈(こぼれ)物砂糖」と呼ばれる習慣も存在していました。
この「盈物砂糖」とは、もともとは積み荷の砂糖が荷崩れして、陸揚げの対象にできなかった砂糖のことを意味していたのですが、その後、荷役にあたる日雇い人足たちが荷役のときに砂糖をこっそり抜き取ることを防ぐ目的で、あらかじめ「盈物砂糖」という名目で人足たちに分け与えられるようになったのです。
こうした「貰砂糖」や「盈物砂糖」は転売して換金されることになります。
このようにして長崎市中には大量の砂糖が流入し、この砂糖がさらに街道の街に流通していき、砂糖は金銭としての役割も担うようになったのです。

この時代に作られるようになった菓子としてはカステラ、金平糖、ボーロなどがあります。
カステラは、鶏卵、砂糖、水飴、小麦粉などを混ぜて焼いた日本の菓子で、ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元に日本で独自に発展しました。
長崎が発祥の地とされ、現在では多くの老舗店が存在します。

金平糖は、ポルトガル語の「Confeito(コンフェイト)」に由来する砂糖菓子で、1543年にポルトガルから日本に伝わりました。
当初は球形でしたが、日本の職人の技術や創意工夫によって現在の角のある形になりました。
回転する釜に糖蜜を何度もかけながら砂糖結晶を大きくしていく伝統的な方法で作られており、様々な味や色合いのものがあります。

丸ぼうろ 出典:佐賀県公式観光サイト


ボーロは、主に小麦粉やばれいしょでん粉などを主原料とする焼き菓子の総称です。
元々はポルトガルから伝わった南蛮菓子で、ポルトガル語で「ケーキ」や「焼き菓子全般」を意味する「bolo」が語源です。

小城羊羮 出典:佐賀県公式観光サイト


これらのほかに有名な菓子としては小城羊羹が挙げられます。
長崎街道の中途に位置する小城は、名水と言われる清水川の清涼な水があり、また当時の佐賀平野は小豆の産地でもあったことなどから、主原料である「砂糖」「水」「小豆」が調達しやすかったという地理的に有利な条件がありました。
この条件に加え小城は城下町で茶道の文化が発達していたことから、お茶請けとして羊羹が受け入れられる下地があったことも、この地で羊羹作りが盛んになった理由と言われています。
長崎で陸揚げされた砂糖は、長崎の地や長崎街道沿いの街々で、このような豊かで個性的な菓子の文化を築いていったのです。

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砂糖がもたらした光と影(その2)甘味の陰に隠れた黒糖と奄美群島の悲劇

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