タイ料理を思い浮かべたとき、多くの人が真っ先にイメージするのは、香り高いスープやカレー、そして複雑に絡み合う辛味や酸味ではないでしょうか。
このことは、以前のコラム「形容詞の多さ」でも触れたところです。
これらの複雑な味わいを支えているのが、豊富な香辛料とハーブです。
レモングラスやガランガル(ショウガ科の植物)、こぶみかんの葉など、タイ料理に欠かせない素材は単なる風味づけのためだけではなく、歴史的に「保存」「医療」「儀礼」といった役割を果たしてきました。
ここでは、タイの食文化を支えてきた香辛料とハーブの歴史的役割について、わかりやすく掘り下げてみましょう。
香りで整える「三位一体」の組み合わせ
タイ料理の特徴を端的に表すなら、「香りの層を重ねる料理」といえます。
その中でも代表的なのが、レモングラス・ガランガル・こぶみかんの葉という三つのハーブです。
これらは単体でも爽やかな香りや独特の辛味を持っていますが、組み合わせることで香りが引き締まり、料理全体に立体感を与えます。
たとえば有名な「トムヤムクン(ต้มยำกุ้ง)」では、この三つが必ずと言っていいほど登場します。
レモングラスの柑橘のような清涼感、ガランガルの爽快でスパイシーな風味、こぶみかんの葉の高い香りが合わさることで、辛さや酸味の強さを心地よく調和させているのです。
こうした香りの組み合わせは、単に「美味しさ」を演出するだけではありません。
古来より、これらのハーブは消化促進や食欲増進、疲労回復といった効果を持つと信じられてきました。
つまり、料理にハーブを加えることは、薬を服用することに似たような意味合いも持っていたのです。
唐辛子がもたらした食文化の転換
現在では「タイ料理=辛い料理」というイメージが強くあります。
しかし、タイに唐辛子が伝わったのは16世紀以降のことで、それ以前は黒胡椒や長胡椒が辛味の中心でした。
唐辛子はポルトガル人によってメキシコからもたらされたといわれています。
この唐辛子の導入が、タイの食文化を大きく変えました。
とくに「ナムプリック(น้ำพริก)」と呼ばれるディップ状の調味料が発展したのは唐辛子のおかげです。
ナムプリックは唐辛子を臼でつぶし、魚醤(น้ำปลา)やエビペースト(กะปิ)、ハーブなどと混ぜ合わせて作られるペーストで、野菜や魚をつけて食べます。
辛さだけでなく旨味や酸味が加わることで、シンプルな主食である米飯がより一層美味しく、バリエーション豊かに食べられるようになりました。
唐辛子の存在は、まさに「タイの食卓を一変させた革命」といっても過言ではありません。
発酵の知恵と保存の役割
高温多湿なタイの気候では、食品の保存が大きな課題でした。
その中で発酵技術は欠かせない知恵となり、香辛料やハーブとともに食文化を形作ってきました。
代表的なのが「ナムプラー(น้ำปลา=魚醤)」や「カピ(กะปิ=エビペースト)」です。
魚やエビを塩とともに発酵させることで長期保存が可能になり、しかも独特の旨味を料理に加えることができます。
また、東北地方(イサーン)で使われる「プラーラー(ปลาร้า)」という発酵魚の調味料も有名です。
独特の香りは好き嫌いが分かれますが、ラープ(ลาบ)やソムタム(ส้มตำ)などの料理に欠かせない存在です。
これらの発酵調味料は、ハーブや香辛料と合わせることで強い匂いを和らげつつ、料理全体を引き立てる役割を担っています。
保存技術と味の工夫が一体となった結果、タイ特有の“発酵×ハーブ”という調和が生まれたのです。
医療と食事の境界線
タイでは「食べることは治すこと」と考えられてきました。
伝統医療では、体調や季節に応じて適切な食材やハーブを摂取することが推奨されています。
たとえば、雨季に流行しやすい風邪や消化不良には、トムヤムのように香り高く酸味のあるスープが適しています。
発汗を促し、胃腸を整える効果があるとされているのです。
また、暑季には「カオチェー(ข้าวแช่)」という料理が登場します。
これは香りのよいジャスミンライスを冷たい水に浸し、ハーブや香辛料で味付けした副菜とともに食べる料理です。
体を冷やし、熱気を和らげる役割を持つとされ、まさに医食同源の実例といえるでしょう。
このように、香辛料やハーブは単なる「風味づけの素材」ではなく、日常生活において健康を守るための重要な役割を果たしてきたのです。
香りの層を重ねるタイ料理の思想
タイ料理が国際的に評価される大きな理由の一つは、その複雑で奥深い味わいです。
それは「甘・辛・酸・塩・旨」という五つの味をバランスよく組み合わせるだけでなく、香辛料とハーブを多層的に用いることによって生まれています。
フレッシュなハーブの爽やかさ、乾燥スパイスの温かみ、発酵調味料の深み。
この三つが組み合わさることで、一皿の料理に立体感と奥行きが加わります。
香りの波が口の中で次々と押し寄せ、最後には調和して一体感を生み出す。
これこそがタイ料理ならではの「香りの哲学」といえるでしょう。
タイの食文化を形づくってきた香辛料やハーブは、単なる調味料ではありません。
レモングラスやガランガル、こぶみかんの葉といったハーブは、消化や健康維持に役立つ生活の知恵であり、唐辛子の導入は辛味の文化を根本から変えました。
発酵調味料は保存と旨味を同時に実現し、伝統医療と結びついた料理は人々の健康を支えてきました。
そして、それらすべてが「香りの層」を重ねるという思想に結晶し、現在のタイ料理の豊かさにつながっています。
タイ料理を味わうとき、その奥にある香辛料とハーブの歴史的役割に思いを馳せれば、ただ「美味しい」という感覚を超えて、食文化の奥深さをより深く楽しむことができるでしょう。