江戸時代の初めの頃は、砂糖は薬として扱われるほどの高級品で、庶民にはほとんど手が届きませんでした。
和菓子に砂糖が使われるようになったのは、一部の大名や富裕商人の贅沢品としてであり、庶民が口にするのは祭礼や特別な機会に限られていました。
砂糖はポルトガルやオランダ、中国から輸入されたものですが、その後別のルートが生まれます。
奄美群島から黒糖(黒砂糖)が流入したのです。
奄美群島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島など)は、サトウキビ栽培に最適な気候と土壌を持ち、糖度が高く、香り豊かな黒糖が生産されます。
奄美群島産の黒糖は、ミネラルを含む天然の甘味料で、白砂糖にはないコクと深みがあることから、京都をはじめとする和菓子職人にたいへん重宝されています。
和菓子職人は、こしあんやすり蜜、練り切りなどに黒糖を使うことで、甘さに奥行きを持たせる技法を用います。
奄美の黒糖は繊細な甘みが求められる和菓子に最適とされ、伝統的な製法と相性が良いのです。
しかしこうした奄美の黒糖は、島民の犠牲によってもたらされたものなのです。
薩摩藩は1609年3月に奄美群島に、4月には琉球王国に侵攻し、那覇と首里へ攻め入り、尚寧王は捕らえられることになります。
同年8月に琉球の処分が決まると、奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島は、琉球王国から分割し、薩摩藩の支配下に入ります。
形式的には琉球王国の統治が続けられましたが、事実上は薩摩藩の直轄地となったのです。
薩摩藩は本土から代官を派遣して代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置して統治を進めました。
薩摩藩による統治の初期では、米作が奨励されますが、このころから生産されるようになっていたサトウキビ栽培に薩摩は注目することになります。
というのも、黒糖は大坂などの日本国内で高価で取引されるようになっていたからです。
その後、薩摩藩は奄美群島で島民にサトウキビ栽培と黒糖生産を強制しました。
食料となるサツマイモ畑をサトウキビ畑に変えられ、島民は食料を確保する代わりに黒糖を年貢として納めさせられました。
薩摩藩が黒糖を独占し、島民間の売買を禁じ、これに違反した場合は死罪とされました。
黒糖は藩が安く買い上げ、島民はサトウキビや黒糖を口にすることすら禁じられ、違反者には鞭打ちや死罪などの厳罰が科されました。
「黍横目(きびよこめ)」と呼ばれる役人が監視し、サトウキビ畑の管理を徹底していました。
島民は日用品を黒糖で購入するなど、貨幣経済からも排除され、生活は困窮していきます。
年貢を納められない者は「家人(ヤンチュ)」と呼ばれる奴隷的身分に落ちることもありました。
薩摩藩による厳しい黒糖政策によって多額の借金を負い、返済できなくなった農民が、その身を主である豪農に売った「債務奴隷」が発生したのです。
さらには島内ではコメやイモなどの保存食の生産が制限されたため、島民の生活は困窮しました。
サトウキビ中心の栽培が強制されたため、ひとたび台風などの災害で作物の不作が起こると保存食は底をつき、飢餓状態に陥ります。
飢饉の時は草の根や海藻などしか口にすることはできない状態であり、ソテツの実を毒抜きしたり、幹からでん粉(サゴの一種)をとって粥などに加工し食用とすることもあったといいます。
これが「黒糖地獄」と呼ばれる理由です。
とりわけ飢餓の著しかった徳之島では、耐えかねた島民は奄美大島に渡ります。
しかし奄美大島でも上納の黒糖を納めることができない農民が少なくなく、暮らしぶりは徳之島と大差なかったのです。
彼らはやがて生きていくために、豪農の債務奴隷であるヤンチュに身を落としていくことになります。
明治初期には、奄美大島の総人口のおよそ2割から3割がヤンチュであったといわれています。
黒糖は薩摩藩の財政再建の柱であり、特に調所広郷の改革以降、黒糖の管理体制が強化されました。
薩摩藩は黒糖を江戸幕府や大坂の商人に専売することで莫大な富を得ます。
1830年代には薩摩藩の砂糖出荷量は全国の約半数を占めるほどで、財政を大きく潤しました。
こうした薩摩藩の圧政は1879年に明治政府が奄美群島を編入するまで続きました。
この黒糖による収益は、幕末の倒幕運動の資金源にもなったとされ、薩摩藩が明治維新の原動力となる背景の一つと言えます。
薩摩・長州・土佐・肥前といった明治維新の雄藩の筆頭に挙げられる薩摩藩ですが、この活躍の背景には、奄美の島民の血と汗と涙があったのです。
このことは決して忘れてはいけない史実なのです。
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