タイで踏切事故が多発する背景を理解するためには、なぜタイの踏切が現在のような危険な構造になったのか、その歴史的な経緯を知る必要があります。
結論から言えば、タイの踏切問題は「鉄道が先に整備され、その後に急速に発展した道路交通や地域住民の生活動線に制度やインフラ整備が追いつかなかったこと」に起因しています。
さらに、安全基準の整備や設備投資の遅れも重なり、現在の状況が形成されたと考えられます。
タイで鉄道建設が始まったのは、19世紀末のラーマ5世(チュラーロンコーン王)の時代です。
当時は自動車交通がほとんど存在せず、鉄道は国家の重要な交通インフラとして位置づけられていました。
そのため、まず鉄道を建設し、その後に道路が線路を横断する際には踏切を設けるという考え方が一般的でした。
この点は、日本の明治から大正時代の鉄道整備とよく似ています。
しかし、日本ではその後、自動車交通の増加に合わせて安全基準の強化や高架化・立体交差化が進められました。
一方でタイでは、そのような安全対策が十分に進まず、多くの踏切が長年にわたり残されることになりました。
第二次世界大戦後、タイでは経済成長とともに自動車やバイクが急増しました。
鉄道沿線には集落や市場、工場などが発展し、人や車が線路を横断する機会も増えていきました。
しかし、新たな正式な踏切を整備するためには予算や手続きが必要であり、容易には対応できませんでした。
その結果、国が認可した正式な踏切だけでなく、地域住民が生活の利便性を優先して設けた非公式の踏切、いわゆる「勝手踏切」が各地に増加していきました。
こうした踏切には警報機や遮断機が設置されていない場合が多く、安全性に大きな問題を抱えていました。
タイ国鉄の資料によれば、全国約2,700か所の踏切のうち、およそ700か所が無許可の踏切とされています。
また、2005年から2021年までに発生した列車事故の約44%が、このような非公式踏切で発生したと報告されています。
つまり、地域住民の生活を支えるために作られた踏切が、結果として重大事故の温床にもなっていたのです。
https://www.thaipbs.or.th/news/content/506287
では、危険性が明らかであるにもかかわらず、なぜこうした状況が長年改善されなかったのでしょうか。
その理由の一つは、住民の生活との密接な関係にあります。
タイ国鉄や政府が無許可踏切の閉鎖を進めようとしても、「遠回りを強いられる」「商売に支障が出る」といった理由で住民の反発を招くことが少なくありませんでした。
中には、閉鎖された踏切の柵を住民が再び壊して通行できるようにしてしまう事例も報告されています。
また、財政面の問題も大きな要因でした。
タイ国鉄は長年にわたり慢性的な赤字を抱えており、安全設備の更新や立体交差化よりも、まず鉄道の運行を維持することが優先されてきました。
高架橋や地下道の建設には莫大な費用がかかるため、「必要性は理解しているが実現できない」という状況が続いていたのです。
https://www.thaipbs.or.th/news/content/506043
さらに、安全基準そのものの整備も遅れていました。
2010年代に入るまで、どのような条件の踏切に遮断機を設置すべきか、どの程度の交通量で立体交差化を行うべきかといった体系的な基準は十分に整備されていませんでした。
そのため、「標識だけ設置する」「警報機はあるが遮断機はない」「係員が旗を振って注意を促すだけ」といった不十分な安全対策に頼るケースが多く見られました。
こうした歴史的経緯により、タイでは現在でも「標識のみ」あるいは「警報機のみ」の踏切が数多く存在しています。
つまり、列車の接近を知らせる設備はあっても、車両や歩行者を物理的に止める仕組みがない踏切が少なくありません。
これは、安全確保を人間の判断に大きく依存する構造であり、事故発生のリスクを高める要因となっています。
https://www.thaipbs.or.th/news/content/506075
また、道路側の安全対策も十分とは言えません。
夜間の視認性が低い場所や、減速帯や路面標示が不足している場所も多く、こうした道路設計上の問題が事故の深刻化につながっていると指摘されています。
さらに、踏切問題には複数の利害関係者が関わっています。
タイ国鉄は安全のために踏切を減らしたいと考えていますが、地方自治体は住民の利便性を重視し、住民自身もできるだけ近い道を利用したいと考えています。
そのため、危険性を認識しながらも完全には解消できない踏切が全国に残されているのです。
もっとも、近年は状況が変わりつつあります。
タイ政府とタイ国鉄は、無許可踏切の閉鎖や迂回路の整備を進める方針を打ち出しています。
また、交通量の多い踏切については高架橋や地下道による立体交差化を進める計画も進行中です。
さらに、複線化事業や高速鉄道、新しい都市鉄道では原則として踏切を設けず、高架化を前提とした整備が進められています。
このように、タイの踏切が危険な構造になった背景には、鉄道が先に整備され、その後の急速な道路交通の発展や地域社会の変化に制度やインフラが追いつかなかったという歴史があります。
そして、その問題を十分に解決できないまま長年放置されてきた結果、現在のような状況が生まれました。
近年になってようやく本格的な改善が始まったものの、100年以上にわたって積み重なった課題を解決するには、今後も長い時間と継続的な投資が必要になるでしょう。